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【小説:君の膵臓をたべたい】ヒロイン死亡映画は「その後」を描きがち(感想:ネタバレあり)

「君の膵臓をたべたい」が映画化することをつい最近知った。

というわけで、実写化される映画についての思いと、小説の感想を書きたいと思う。

kimisui.jp

 

 ↓ちなみに何か月かの時を経て、しっかりと映画も見てきたので、感想記事のリンクをこちらにも貼っておく。

midoumairu.hatenablog.com

 

 

 

 

「君の膵臓をたべたい」は売れ始めてから結構経ったときに読んだのだけれど、これは上手いなぁと感心した小説だった。

 

事実、売れているし、評価も高い。以下ウィキの引用。

本屋大賞」2016第2位、「ダ・ヴィンチBOOK OF THE YEAR 」2位、「2015年 年間ベストセラー」6位(文芸書・トーハン調べ)、「読書メーター読みたい本ランキング」1位、「埼玉県の高校図書館司書が選んだイチオシ本2015」1位、「2016年年間ベストセラー」総合5位、文芸書1位(トーハン調べ[5])、「2016年 年間ベストセラー」総合4位、単行本フィクション1位(日販調べ[6])と高く評価された[1][7][8][9]。2017年3月時点で累計発行部数は75万部[10][11]

 

何が良かったのかをネタバレ込で書きたいのだけれど、その前に劇場版の内容が気になってしょうがなかったので、そちらについてまずは言及しておきたい。

タイトルにも書いたが、「ヒロインが死亡する小説を実写化すると、その後が描かれがち」という点についてだ。

 

あの名作も、原作にはない未来を描いていた。

まずは予告編を見てほしい。


「君の膵臓をたべたい」予告

 

小栗旬が現れたとき、「なるほど」と一瞬で感じ取った。これは、

 

原作のその後が映画で描かれるやつだー!!!

 

そりゃ、【僕】は学生だぜ。小栗旬さんじゃさすがに演じられない。学生を違和感なく演じられるいい大人なんて、佐藤健ぐらいしかいないんじゃないだろうか。

 

決して、僕は映画化・映像化する際、必ずしも原作を忠実に再現しようとする必要があるとは思っていない。

しかし、ヒロインが死亡する小説における、その後を描いた実写映画化にとても既視感を覚えたので、記憶を遡ってみる。

 


Japan Movie 世界の中心で、愛をさけぶ 予告編

 

うん、たぶんこれだ。私が小学生の時に小説・映画を見て、原作と違う!とあたふたした初めての経験、『世界の中心で、愛をさけぶ』。

劇場版『セカチュー』では亜紀を失った後の、朔太郎と婚約者のエピソードが描かれている。確か、原作にはなかったエピソードだ。

ciatr.jp

 

ちなみに、『セカチュー』については、原作のその後のエピソードが追加されても、違和感なく見れた、記憶がある。原作をよく再現していて、そのうえで地続きなエピソードを描けたからだろう。

『君の膵臓をたべたい』にも期待をせざるを得ない。脚本が『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』の吉田智子さんなので、楽しみ。

midoumairu.hatenablog.com

midoumairu.hatenablog.com

 ↑ 結構好きなんです。

 

まぁ、まだ公開されていない作品についてとやかく言うのはこれぐらいにしておいて。原作が好きなので、おそらく映画の方も見に行くだろう。

しかし、「君の膵臓をたべたい」は小説だからこその魅力的な表現も散在していて、それらをどのように映像化した際に再現するかが気になるところだ。

 

というわけで、原作の良さについて、ちょっとだけ書いていきたい。

以下、ネタバレ注意だ。

タイトルの圧勝(以下小説ネタバレ)

「君の膵臓をたべたい」このタイトルに、魅力が集約されていると思う。

目を引くタイトル。多くの人は興味を持つだろう。

それでいて、物語の中核を担う一言だから、最高だ。

序盤、焼肉を食べるシーンで「身体の悪いところを食べると治るらしい」という冗談を桜良が言うが、作中至るところでこの手のネタが飛び交っているので、まぁこんなもんかと読み進めていたわけだが。

終盤の「垢を煎じて飲む」を膵臓に置き換えてお互いを認め合う流れは美しすぎた。よくまあ考えたものだ。

 

人の目を引くこともでき、桜良と【僕】の関係を表現している、商業的にも物語的にも破綻なく美しくはまった言葉こそが、「君の膵臓をたべたい」。この一言を活かす物語を描き切った時点で、作品が輝くことは約束されていたと思う。素晴らしい。

名前を認識しようとしない【僕】(小説ネタバレ)

映画HPの「Story」でも再現されているが、作中で主人公、【僕】の名は最後の最後まで、明かされない。

他者に名前を呼ばれても、【僕】がその人にとって、どう思われているかによって、その名前は変わるのだ。【クラスメイト】とか【???】とか。

調子のいいクラスメイトが話しかけてきたとき、「【】ぁ」と呼んでいたので、苗字の最後の文字は「A」で終わるのだろう、とか想像しながら読んでいるのが楽しかった。戯言シリーズいーちゃんの名前が気になるのと同じような心情だった。

 

まぁ、いーちゃんとは話が違って、名前を【僕】が認識しようとしない理由も、桜良ちゃんの遺言状に書かれているわけだが、主人公の人と向き合おうとしなかった姿勢を示す面白い表現方法としてとても面白い。最後名前を明かした時に、桜良と【僕】の名前が、近しかったのも、オチとして気持ちがいい。

 

前者はともかく、この【僕】の表現については、映画で再現するのはなかなか難しいだろう。潔く切るのか、活かすのか。楽しみで仕方がない。

遺言は、12年後に届く?

さて、映画の話に再度戻るのだけれど、「Story」には以下のように書かれている。

そして、ある事をきっかけに、
桜良が12年の時を超えて伝えたかった本当の想いを知る2人ー。

「本当の想い」というと、原作における桜良の遺言が頭をかすめるわけだけれど、原作のクライマックスを12年後に持っていくのか、それとも別の弾を用意するのかも、楽しみな点の一つだ。

桜良の遺言状が【僕】を再起させ、恭子との関係を生みだし、桜良と同じく人との関わりに意味を見出そうとさせたわけだから、12年後までお預けというのはなかなか【僕】にとって酷なストーリーになりそうだなあと思いつつ。

 

それでも、大人になった【僕】や恭子を描きたいのは、大切な人が亡くなっても、ちゃんと大人になって幸せになれているという「救い」が、我々視聴者の心を打つからなんだろうなあ。

 

楽しみだね。