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【ぼくは明日、昨日のきみとデートする】原作小説と映画の違いが面白い(感想:ネタバレあり)

どうもこんにちは。 初めて小説の話をします。

昨日、こんな記事をアップしました。

midoumairu.hatenablog.com

 

童貞マインドにグッとくる映画、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」。

元々「見たい!」と思ったきっかけが、原作がライトノベル作家七月隆文さん)執筆によるものだったということもあり、ちゃんと小説も読んだ。

 

ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)

ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)

 

 

 

とても読みやすい文体、通勤電車でさっと読み終えた。映画見て、話の内容が頭に入っているなら、1時間半ぐらいあれば読了できるはず。

原作を読んで改めて感じるのですが、映画版「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」はとても丁寧に登場人物の心理描写や設定の説明がされており、映画で描かれていなかった部分が小説で補足されているかといったらそうではありません。

映画を見た人は、ちょっとしたディテールの違いを楽しむ小説、と思って読むといいかと。

 

この記事では、映画版と小説版の違いを挙げつつ、「この工夫はいいなあ」って思ったところを羅列していきます。

なので、今回の記事はしょっぱなからガンガンネタバレです。

純粋に小説を楽しみたい人、映画を楽しみたい人は、読み終わった・見終わった後に読んでみてください。

 

違い① リアリティの映画版と、可愛い小説版。

映画「ぼく明日」の愛美ちゃんは、小松菜奈ちゃんが演じていることもあり、なんだか「大人っぽくて清楚で自立している」印象がとても強かった。最後まで、高寿の一歩先を行っているような、ある意味悟っているような、影がある甘えが苦手な女の子ってイメージ。

 

一方小説版。愛美ちゃんは甘えたがる子で、女の子らしい一面が強く出ている。

まあこれはビジュアルがついていないため、読者の頭で理想的な女性像を作りあげることが出来るからかもしれないけれど。ちゃんと「可愛い!守ってあげたい!」と思わせる描写がいくつかある。

 

決定的な違いは、高寿にとっての最初の日、愛美ちゃんにとっての最後の日の別れ際のシーン。映画では愛美ちゃんがそっと涙を流す程度の描写で終わっているが、小説では愛美ちゃんが感極まって高寿に抱き着いて泣いてしまうのだ。

ここの違いは大きい。「高寿が時間逆行について理解していないから、おかしいと思われないように自分は我慢しなければいけない」と自らを制御した映画版と、感情のままに最後の日に抱き着いてしまう小説版。

後者の方が、人間味があるというか、愛美ちゃん自身がいっぱいいっぱいになっている感じが伝わってきて、可愛いと思った。

 

しかし、映画でビジュアルに起こすとなると、初対面(という体で視聴者が見ている)の男女がいきなり抱き合うのはきついし、非現実的過ぎても視聴者の心が離れてしまうので、致し方がないところではある。

このシーンに限らず、小説版はもっとフィクションっぽく振り切っており、映画版はやや現実的だ。

その結果映画版では、最初から過酷な運命を知っており、全てを理解している愛美ちゃんは大人っぽく描かれているのだと思う。

 

あと、余談だけど、小説版愛美ちゃんは、例えば「だよねっ」と言ったように、語尾を良く跳ねさせる。この「っ」の感じが非常に可愛い。子どもっぽい感じが良い。小説版では、そういうちょっとした文章の工夫で、愛美ちゃんの可愛らしさをむくむくと育てあげていた。流石だぜ、七月さん。

 

違い② 絵に残す映画版と、夢を応援される小説版。

高寿が美大に通っているという設定は同じだが、その設定の活かし方が明確に映画版と小説版で異なる。

 

映画版の高寿は、絵に振り切っていた(美大だし当然だ)。そして、その「絵」という彼の特性は、「愛美と過ごす今の時間を大切にする」という描写に繋がっていく。

高寿にとっての最後の日、彼が愛美ちゃんの絵を描く象徴的なシーンがある。「彼女の今を、彼女と過ごしたこの瞬間を残す」という高寿の強い思いを感じられて、僕はとても好きだ。

実はこのシーン、小説版にはない。絵に残すという形でこの一瞬を大切にする高寿の思いを視聴者に伝えるのは、美大所属という設定を最大限に活かした映画版ならではのファインプレーだ。

 

一方小説版は、高寿の興味が多岐にわたっていて、絵よりも小説を書く彼にフォーカスされている。

小説の冒頭で「イラストレーターになりたい。同時に作家にもなりたい」と明言されており、その後も夢を追う高寿とそれを応援する愛美ちゃんが何度も取り上げられている。というか、もはやこの小説の軸になっている。

高寿が周囲に隠しながら密かに書いていた小説を、愛美ちゃんが読んで、その感想を手紙として渡す場面がある。それだけではなく、決まった30日間をなぞらなければいけない愛美ちゃんが、高寿に渡す感想だけは答え合わせをしないで書こうとするのだ。

この部分は2人の関係をとても良く表現できているなあと思っていて、「秘密の共有」と「決して同じ将来を歩めない恋人の、夢の応援」と「イレギュラー対応をすることによる大切さの表現」がぎゅっと凝縮されている。

お互いに大切にしあっていることを、将来の夢を一緒に見るということで伝えるという手法を小説版はとっていた。

 

今を大切にする描写に重きを置いた映画版。限られた時間の中でも将来を2人で考える描写に重きを置いた小説版。

優劣はないけれど、ビジュアルとして魅せる映画において、絵を描くというオリジナル路線を貫いたのは英断だと感じた。

 

※余談だけど、小説版の愛美ちゃんが高寿に渡した手紙の部分だけ、手書きになっていてとても可愛い。顔文字とか書いてあるし。なんだこの破壊力。

 

違い③ 家族写真と2人の写真

もう書きたいことは書き尽くしたのだけれど、ポイントは3つにしたがる癖があるのは社会人の嫌な宿命である。

映画版、小説版ともに高寿の家族に2人で会うシーンはあるのだけれど、映画版は家族で写真を撮り、小説版は高寿と愛美ちゃんの2人で写真を撮る。

「家族になんでなれないんだろう?」という高寿の痛みを表現するために、家族写真にするのは効果的だけど、初めて出会った家族と写真を撮れる勢いスゲーなぁって感じだ。

2人で記念撮影するほうが恋人っぽい。甘酸っぱい!この点においては、小説版に軍配が上がるかな。

 

まとめ

ディテールが違う、とは言ったものの、こうやって書いてみると映画版と小説版が結構違っていることに気付きますね。

やはり表現媒体によって、映える物語は変わってくる。

かつて私は「原作ある作品は、原作読めばいいじゃん」という主義を掲げていましたが(俗に言う改悪アニメを嫌っていました)、原作と映像化作品の違いを見ると面白いですよね。創意工夫があって。