定時後に映画館

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【映画:君の膵臓をたべたい】思ったより原作に忠実(感想:ネタバレあり)

 映画ってタイトルに書いておきながら小説版の感想という紛らわしい記事を過去に公開してしまったところ・・・

midoumairu.hatenablog.com

 

最近アクセスがめっちゃ伸びていて

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なんかこれで映画見ないのもおかしな話だよなってことで、

 

kimisui.jp

 

ちゃんと映画を見てきた。8月1日、渋谷TOHOシネマズで21時ぐらいの回を。

 

タイトルにも書いたけれど、割と原作に忠実に映画化していて、原作好きな僕の満足度はなかなかに高かった。

主に原作との違いについてぶつくさ言いながら、感想を書きたい。

客層:若い子がたくさん

どんな人が見てるんだろう、って気になったから一応映画館に入って客層をチェックしておいた。

 

渋谷って街だからこそなのかもしれないけれど、やっぱり若者が多数。21時代の上映だったから、ほとんど大学生カップルもしくは女の子のグループだった。ごく少数私のような退社後のくたびれたサラリーマンもいた。お疲れ。

 

物語のクライマックスでは鼻をすする音がどこからか聞こえてきたし、なんだか隣で見ていた女の子も泣いていたようだった。若い子は感受性が豊かだ。後述するけれど、僕は泣きそうになったけれどどうにか堪えた達だ。

 

原作との違い(以下ネタバレ)

未来からの回想か、ほぼ現在進行形か。

映画版はヒロイン桜良が亡くなった12年後が描かれているという点が原作との一番の違いだろう。ヒロイン死亡映画にありがちな、「ヒロインの死を引きずっている主人公が、過去の回想を交えつつ、立ち直っていく様を描く」というテンプレに綺麗に乗っかっている。

現在→12年前→現在→12年前→現在→12年前→現在・・・

と今と過去がサンドイッチされている形だ。

 

ご存知の方がほとんどかと思うが、一方原作はほぼ現在進行形で【僕】と桜良との交流を描いている。時系列は確かこんな感じじゃなかったかな。

桜良の葬式当日 → 桜良との出会い~別れ → 葬式から数日後、共病文庫と遺書を読む → 後日談(【僕】と恭子が桜良のお墓参りに行く)

 

過去回想型だと一々話が途切れてまどろっこしい印象を持つことがあるが、この映画に限ってはそこら辺のバランス感覚はうまく取れていた。ぶつ切りになっていた印象はない。

遺書を見つけるタイミングが一番の違い

物語の構成が大分違っているが、しかし原作ファンの皆さんには安心してほしい。

映画版は、学生時代の【僕】と桜良のやり取りについては、ほぼ正確に再現している。つまり、物語の大半は原作に忠実に作られている。もちろんちょっとした改変はあったけれど、ストーリーラインはほぼ変わっていない。

※個人的には「爪の垢を煎じて飲む」という表現が一切出てこなかったのが気になった。この元ネタがあるから「君の膵臓をたべたい」が映えると思うのに。

 

【僕】と桜良との出会いから、友達になっていく過程。旅行にも行ったし、「いけないこと」もしかけるし、病院の夜の「真実か挑戦か」もしっかりやった。桜良は殺されてその生涯を閉じるし、葬式に行けなかった【僕】は共病文庫を読んで涙を流す。

 

ほぼ原作と一緒だ。しかし、もう「12年後」が描かれている時点で察しがついているかと思うが、桜良の【僕】への本当の気持ちが書かれている「遺書」を【僕】が読むタイミングだけが原作と映画で違っている。

 

原作では、遺書は共病文庫の最後のページに書いてあった。

 

一方映画版では、共病文庫には桜良の日記しか書いていない。なので、学生時代の【僕】が読んだのは、桜良の日記だけ。遺書は、桜良達が通っていた学校の図書館に隠されていた。なので、学生時代の【僕】は桜良の本当の気持ちを知らないまま、大人になる。

また、細かいようで重要な点は、原作では【僕】の「君の膵臓をたべたい」が桜良に伝わっていることをケータイのメールの受信ボックスから知ることが出来たが、映画版だと【僕】の「君の膵臓をたべたい」が桜良に伝わっているかどうかは明らかにされていない(そして最後までこの点について言及されることはなかった)。

 

あるきっかけがあり、ようやく遺書を見つけて、これから新しい人生を踏み出そうとするというのが映画版の「現在」におけるクライマックスシーンだ。

 

映画版には、【僕】が共病文庫の桜良の日記を読んで号泣するシーン(過去)と【僕】と恭子が桜良の遺書を読んで感動するシーン(現在)、2つのクライマックスを構えているというわけ。

 

映画版の「現在」について

映画版では、原作にはないエピソード【桜良が亡くなった12年後の話】が結構な尺をとって描かれている。

【僕】は学校の教師に(かつて【僕】と桜良が通っていた学校の教師になっていた)。

恭子はお花屋さんになり、結婚を控えている。彼女の婚約者は、原作にも出ていた【僕】にガムを渡していたあいつだ。原作の最後のシーンでも恋愛をほのめかす描写があったから、まぁ不自然なカップリングではない。

 

で、【僕】は先生であることにやりがいを感じていなかったが、図書館の整理をしているときに桜良の遺書を見つけ、しっかりと生きていく決意をするというオチ。

 

ちなみに、恭子に遺書を渡すタイミングは彼女の結婚式の当日。花嫁姿の恭子が、かつての友人の遺書を読んで泣き崩れるというシーンもなかなかの泣かせポイントである。【僕】が恭子に「友達になってください」というのもこのシーンだ。

映画版では桜良の死後【僕】と恭子が疎遠になったのがよく分かる。【僕】は結婚式の招待状を受け取っていたが結局返事を出さず、結婚式の当日に遺書を見つけて慌てて式場に駆け込むという何とも気まずい再会を果たしていた。

12年経って、ようやくいろんなものを取り戻した、といった感じのエンディングである。

 

感想

大分改変されていると思ってみたので、想像以上の原作再現を果たしていた映画版に僕は非常に満足している。

特に、原作では他人が【僕】の名前を呼ぶときには、【xxxx】(その人が自分のことをどう思っているのか、という【僕】の解釈が入る)と表現していたが、それを違和感なく映像化したのは素晴らしい手腕だと思う。

ガムを渡してくるあいつは、常に【僕】をしっかり名前(志賀)で呼んでいたし(原作でも彼が【僕】を呼ぶときは「【クラスメイト(正確には覚えてないけど)】ぁ」という書き方をされていて、【僕】を本当の名前で呼んでいるという確証が持てた人物だった。)、桜良には最後の遺書以外では一切本名を呼ばせなかったのもナイス演出だと思っている。

原作の雰囲気を損ねないという意味では完璧である。桜良ちゃん演じる浜辺美波さんもイメージぴったりだった。

 

しかし、原作と映画版の一番の相違点について言及させてもらうと、桜良の遺書を読むタイミングはやはり共病文庫と一緒の方が、つまり原作の方が、僕は好きだ。

そして、お互いに「君の膵臓をたべたい」と伝えあったという事実を認識しているかどうかでも、【僕】が泣いた意味合いは違ってくると思う。原作にはその点についてしっかりと言及がされている。ちゃんと気持ちが通じ合えていたということについての喜びも、あの涙には含まれていたのではないだろうか。色んな深読みが出来るという点も好ましい。

 

映画版だと12年もの間、【僕】は桜良の様に人と関わり合いながら生きていく貴重な時間を棒に振っているわけだし、恭子と友達になるという約束を果たすのも大人になってからでは何というか意味合いが違ってくる。なんというか手放しにハッピーエンドじゃないのだ。

 

【僕】が他者に興味がないと壁を作っていた「子ども」だったからこそ、桜良が遺書に書いた「君が羨ましい」という言葉が意味を持つんじゃないだろうか。ちゃんとお互いに尊敬しあえる存在でいられたことが意味を持つんじゃないだろうか。

おそらく彼女の言葉は大人になってからじゃあまり響かないんじゃないか、と24近くになった僕は思う。彼女の言葉なくとも、大人になってしまえばある程度聞き分けが出来てしまうし、周りとも卒なく関われてしまうから。

 

桜良の生きた意味が最大限に【僕】に伝わる形でエンディングを迎えたのが原作。

時期を逃してしまったが、12年を棒に振った大人の【僕】がようやく救われたビターエンドなのが映画版。

僕はそういう風にとらえている。どちらが良いか悪いかではなく、前者の方が僕は好き。というだけだけれど。

 

どっちの方が響く人が多いのかなあっていうのは気になるな。映画版の方が、感動のターゲットが広がるのかね(原作のストーリーだと学生しか感情移入できないのかな?)。

 

余談

「マリアンヌ」の公式HPにも「みんなの感想をシェア」みたいなコーナーがあってビビったんだけど、この映画にもちゃんとあったので興味深く拝見している。

皆しっかり泣いてるんだなあ。口コミをそのまま公式HPに貼っちゃうのはいい宣伝方法だよね。ある程度結末が読めているこの作品については特に。

 

まとまりのない感じで〆てしまいますが、以上「君の膵臓をたべたい」感想でした。