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インターネット上に形成される"自分"の存在の不気味さについて

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

お盆休みで暇だったところに、ちょうどよい題材があった。

 

インターネットを利用し始めたのは中学校入学してからだったと思うので、おおよそ15年ぐらいの付き合いになるが、高校在学以前と大学入学以後でその性質が随分と違っているように思える。

その違いがタイトルの「インターネットに形成される自分」になるのだが、順を追って説明したい。

そして、私が、インターネットに形成される自分を嫌悪するあまり、インターネットに消極的になっているんだぜ、という話をしたい。

 

私は抑圧された自我が爆発してしまい大学時代後期から今に至るまで自由にやりたい放題生きるようになっていたのだが、中学生や高校生の頃は自我が強すぎて何事をするにも周りの目が気になってしまって仕方がなかった。

インターネットの利用方法といえば、今はなく2ちゃんねるやゲームの攻略サイトやエロサイト、おもしろフラッシュの閲覧程度。つまりは、情報を受け取る場、とても便利で早い図書館のようなイメージであった。

今となってはブログなんてものを気が向いたら書いているのだが、当時はブログなんてものはもっての他、匿名性が担保された掲示板にさえ書き込むのが恐怖で仕方がなかった。

理由は簡単で、自分という存在を誰もが見れる場に公開するのが嫌だったから。嫌というよりは、恐怖、もっと強いマイナスの感情だったと思う。

当時は「漠然と怖い」程度にしか思っていなかったが、これだけ歳を重ねると自分の抱く感情のロジックがある程度明文化できるようになってきて、そのインターネットに自らの足跡を残す行為への負の感情の理由も説明できるようになった。

その理由というのが、【「インターネットに形成される自分」であり、それは自分とはかけ離れた存在であるはずなのに、インターネット上では私本人だと認識されてしまうのが嫌だったから】なのだが、まあもう少しかみ砕いて説明したい。

 

私は生きているが、私を形成するものは何だろうか。私は、「私」という人間は日々の行動や言動の積み重ねで出来上がっていると思っている。ただし、私が生きてきた28年間すべてを私は記憶しているわけではないので、強烈な印象のあるエピソードや、日常的に繰り返し行っているような重要な行動や考え方が、今の自分を構成する要素として残っていく。

「他人からの印象」について考えるとより分かりやすい。Aという人に対して私がとてもまじめな態度を繰り返していたら、Aにとって私は真面目な人間であり、Bに対して私がとても嫌な態度を取り続けたら、Bによって私は嫌な奴である。

上記はもちろん極端な例だ。私という人間を認識している友人や家族、職場の同僚は、様々な私の行動を目にしている。そういった情報の積み重ねで、私という人間がどのような人間であるかを彼らは認知している。

就活のときに「ジョハリの窓」なんてものを使って自己分析をした記憶があるが、自分が認識する自分と、他者が認識する自分が違うというのは当たり前で、自分が握っている自分を形成する情報リソースと、他者が握っている自分の情報リソースは、量も質も全然違う。そりゃ認識の仕方に差が出るよね。

 

この前提を踏まえたうえで、インターネットの話に戻りたい。
インターネット上で活動した形跡(例えば掲示板の投稿や最近だとSNSの投稿だろう)はデータとして残る。当然、普通に生活していても活動の形跡は誰かの記憶や媒体など(写真とか)に残っているのだが、インターネット上に形跡が残るようになって(特にSNSの台頭によって)より顕著になった気がする。

しかも、最近になって個人とインターネット上の活動は紐づきやすくなったし、さらにアーカイブ性もばっちりだ。各種SNSの個人アカウントをクリックすればよくわかる。

私にとっては、それがとても具合が悪い。

インターネット上の活動がアーカイブされていき、それが私という人間の一側面として、不特定多数に晒されている状態が。生身の私が相対している人にとっての私には、情報に連続性があるし、情報量が多い。

ただ、インターネット上の投稿や活動には、その瞬間のテキストや写真しか情報量がないし、それらが積み重なった結果形成された"オンライン自分"は明確に自分とはかけ離れている。だが、今の社会、もはやそのオンライン自分が生身の自分より多くの人間の目に触れるし、主従が逆転している節さえある。それがたまらなく怖い。オンライン自分が自らの第二の人格として独り歩きし、誰かに勝手に見られ、評価がされる。それが怖いから、インターネットは見る専にしていたし、ネット社会になった今でも最低限の露出で済まそうとしているのだ。

 

と、はてなブロガーが言っている矛盾を感じてもらいながら、(疲れたので)この記事を終わりにしようと思います。ちなみにこの"オンライン私"論を掲げる私はSNSはTwitterしかやっていないし、失恋する度に「ソーシャル自殺」(私という人間をリセットするために、インターネット上に形成された私の一つの側面を抹消する儀式)を行うのですぐに消えます。向いてねえ、この時代。