ぼっち映画の敗北
私は月に平均して5回から6回程度映画館に行くのだが、そのほとんどはぼっち映画である。
このブログのタイトル通り定時後に映画館をするか、フレックスフル活用で朝映画をしてから会社に行くか、休日の予定の前後に見に行くのがほとんどで、稀に友達に誘われて見に行ったり、デートで使ったりもするが、その回数は極端に少ない。
寂しい人だと思われるだろうか。
いや、そんなことはない。私は1人での映画館を、心から楽しんでいるのだから。
年間何十も通うことが前提なので、劇場の会員カードを持っているし、行きつけの映画館で、1800円ではなく無料~1400円という安価で見れた方が精神的な満足度は高い。
映画を見終わった後の会話が楽しい?そんなものTwitterに投稿するかブログに投稿するかで十分なのだ。世の中に感想はありふれているし、私の感想もパソコンと向き合えば紙幅も時間も気にせず世の中に発信できる。
そもそも家で映画を見るのではなく映画館で映画を見る理由は、私と作品以外の異物、外界の全てを排除することにあるわけだから、誰と行こうがあまり関係ないのだ。
私の信念は確固たるもので、これまでもこれからも揺るがない。
そう思っていたというのが、前段であり、これからが本題だ。
この間、「ボヘミアン・ラプソディ」という今話題の映画を見てきた。
いずれ感想を書きたいと思っているが、満足度は相当高く、QUEENに詳しくなくとも何度も耳にしてきた彼らの名曲に隠されたストーリーに私は感動していた。
エンドロールで流れた「Don't Stop Me Now」と「The Show Must Go On」の余韻に浸りながら、休日の人でごった返した映画館をのろのろと歩き、男子トイレへ。
そこで、会社の後輩とすれ違った。
私は当然声をかける。肩を叩き、よおと挨拶すると、2秒ぐらいの間があり、「あ、どうも」と僕の存在を認知したようだ。普段はメガネをかけており、その日はコンタクトだったので、タイムラグが生じたのだろう。
「どうしたんすか?」
後輩は言う。
どうしたんすか? どうしたとは何のことだろう。
単純に映画を見に来たのだが、あぁ、もしかして僕の装いが普段と違っているからだろうか。「コンタクトですね、デートですか?」そういうを聴きたいのではないだろうか。
今思い返すと、「どうしたんすか?」という一言から、想像を膨らませ過ぎたと反省している。だが、あの当時はまだ頭の中で「Don't Stop Me Now」が流れていたのだ。
下手なことを考えついても、止まることなく、次の瞬間にはその思考が言葉に形を変え、既に走り出していた。
「いや、映画見てきたんだけどね。1人だよ、1人。いやこの後デートなんだけどね」
何の宣言だよ。僕は後輩にこれからデートに行く自分をアピールしていた。確かにこれからデートなのだが、じゃあもう昼間の映画館にもその女の子を誘えよ、と言った直後には私の発言の矛盾と、ぼっち映画に取りつかれた自らの心の闇を認識した。脳内で流れていた「Don't Stop Me Now」が一時停止する。
「何見てたんですか?」
特に僕のデートには興味がないらしく、見てた映画について質問をする後輩。というか、僕のデートに興味があるわけなく、最初から映画の話をしたかったゆえの「どうしたんすか?」だったのだろう。
僕は素直に「ボヘミアン・ラプソディ」と答え、彼は笑いながら「同じっす」と言った。
トイレの入り口で長々と立ち話をしているわけにもいかないので、「よかったよな」と僕は彼に手短に感想を伝え、そこで別れた。トイレから僕が出ると、僕よりも先に出ていったはずの後輩が、まだトイレ付近でスマホを弄りながら立っていた。
あぁ、そうか、誰か女性を持っているのだろう。僕は彼に話しかけず、じゃあ根の一言もなく、静かにその場を去った。
その時、僕は明確に「独りでの映画の寂しさ」を感じていた。
同じ時間、同じ場所で映画を見ていたのに、深い愛を描いた「ボヘミアン・ラプソディ」という映画を見ていたのに、私は独りであり、彼はおそらく女性と一緒だったのだ。
あの時、自分から独りで映画に来ていること、そしてこの後デートであることを宣言しなければ、こんな悲しい気持ちにはならなかっただろう。
僕は訊かれてもいない言い訳をしてしまった。それはすなわち、私が「負い目」に似た何かを抱えていたからに他ならない。初めて、私は「独りで映画を見る」という行為の悲しみを認識してしまった。
映画館から駅に向かう道中、せっかくだから何かQUEENの楽曲を聴こうと思ったが、いろいろ考えてやめた。この形容しがたい感情に、どの曲を被せればよいかわからなかったのだ。
2回見てもいい、いや2回見たい。私は思った。
だが、次は誰かと一緒に見たい。
だが、その相手はいない。劇中で描かれたフレディの孤独を、ほんの少し、本当に少しだけ、理解できた気がした。