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【透明人間の骨】完結してしまった。(感想:ネタバレあり)

shonenjumpplus.com

 

ジャンプ+で愛読していた「透明人間の骨」が本日の更新を持って完結した。

昨今長い漫画が多い中、二十二話という短い話数で引き伸ばすことなく美しい最終話を迎えたこの漫画に賞賛を送りたい。

 

あらすじ

来宮家では、日頃から母に手を挙げる父。我関せずを貫く兄。幼き日の主人公・花(あや)が「ここに居たくない」と念じた矢先、“透明になる”力を得る。時は流れ、15歳になった花はある日・ある出来事を契機に決意を固め…。

 ジャンプ+公式から引用。

 

「透明になる力」という非現実的なギミックはあるものの、ファンタジックな内容ではなく、心に闇を抱えた女の子の生き方を丁寧に描いている青春ものだ。

「ここに居たくない」と念じることで透明になる能力が、漫画として効果的に作用しており、その能力を通じた描写で主人公花の心情が分かりやすく読者に伝わってくるので、「よく考えらているなぁ」と感心してしまった。

それぐらい「透明になる力」は違和感なく作品に馴染んでいるし、能力が花を取り巻く人間関係や彼女らの心情のリアリティに水を差すこともない。

 

「透明になる能力」による演出力

あらすじでは書かれていないが、花は母親に暴力をふるう父親を刺殺する。透明になる能力を使っていたので、犯人としては検挙されない。

花は殺したという罪に苛まれながら家を出て高校生活を始めるが、彼女にも友人が出来、やがて「ここに居たくない」という意識や自らを卑下する考え方が少しずつ改められていく。誰かといる楽しさを知った花は、ここに居たくないと思えなくなり、「透明になる能力」を失う。透明になって誰かの写真を撮る趣味を持っていた花が、透明になっていたつもりなのにクラスメイトに見つかるシーンが印象的だ。第三者として撮るのではなく、この空間に居たいと思っている彼女の心情の変化が分かりやすく描かれている。

 

当然最終話に至るまでにいろいろな出来事があり、彼女が「誰かと一緒に過ごす楽しさ」を享受し続けるわけではない。物語の中盤「友人から自分は離れているべきだ」と花を絶望させる事件が起き、その後花は孤独になろうと「透明になる能力」で行方を眩ませた。つい最近まで友人と仲良くして少しずつ生きることの楽しさを知っていた少女が、ふっと空間から消えてしまう描写は読者の胸を突き刺す。ぽろぽろと涙を流したり、絶望的な脳内のセリフをコマに垂れ流すことも出来るのだが、「彼女が消えたいと望み、実際に風景から存在そのものが消し去られてしまう」というインパクトには敵わない。

 

結果的に、彼女は友人に見つかり、また人との関係を築いていくことを決意するのだが、終盤からの展開が熱いのだ。

 

闇を抱きながらも光を見出そうとする花の強さ

物語終盤、彼女は自首することを決める。実の父を殺し、自分の周りで友人が不幸になり、自分の人生に付きまとう闇と散々向き合った花が、他者との交わりの中で感じる幸せな時間を享受したうえで出した結論が、「自首」。

 

自首を決意した後、彼女は母親や兄、殺害した父親の父親(つまりは花の祖父だ)に自らの罪を告白していく。当然彼女に人生の楽しさを教えてくれた友人にも、その事実は伝えている。贖罪のようで、一概にそうとは言えない。祖父に自らの罪を告白した花は、謝罪をしたうえで「父を許さない」とはっきりと言う。そもそも「父を殺してすいません」なんて言っていない。自分の当たり前の幸せを壊した父親を殺害したこと自体への後悔ゆえの行動ではないと思われる。

 

ではなぜ自首するのか。最終話で彼女が自首する理由を、友人に吐露する場面があるのだが、それがぐっとくる。

まぁ読んでほしいのだが、花はいくら幸せな時間を味わうことが出来たとしても、変えることのできない過去が付きまとうことを、学んできたのだ。その結果、彼女は闇と向き合い、振り払わないと、大切な人と過ごす本当の幸せを手にすることが出来ないと悟ったのだ。

「ここに居たい」と願ったが、故の決意が自首。どうしようもない不幸に見舞われてしまった主人公が、束の間の幸せと、それを知ってしまったが故の不幸を味わう。そのうえで、自らを罰することを決意する。

何とも切ない終わり方ではあるが、「人間の強さ」が本作の花ちゃんの生き様からヒシヒシと伝わってくる。強い感情が込められた重厚な作品で、毎週読むのが楽しみで仕方がなかった。

まとめ

これ毎週感想書いてりゃよかったな。全部まとめて書くには1話1話が濃厚過ぎるんだ、まとまりのない感想になった。

とにかく、連載お疲れさまでした。

 

【スリー・ビルボード】フランシス・マクドーマンドが主演女優賞獲ったから感想(感想:ネタバレあり)

eigaz.net

 

第90回アカデミー賞・主演女優賞を「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドが獲得した。確かに彼女の”復讐に取り憑かれた狂気”の演技は迫真であった。

2週間ほど前に見ていたのだけれど、重たかったので感想が書きにくく放置をしていたのだが、改めて記憶を探りながら書いてみようと思う。

 

あらすじ

公式サイトから引用。

舞台は、アメリカのミズーリ州。田舎町を貫く道路に並ぶ3枚の広告看板に、地元警察を批判するメッセージを出したのは、7カ月前に何者かに娘を殺されたミルドレッド・ヘイズ。何の進展もない捜査状況に腹を立てたミルドレッドがケンカを売ったのだ。町の人々から嫌がらせや抗議を受けても、一歩も引かないミルドレッド。その日を境に次々と不穏な事件が起こり始め、町に激震が走るなか、思いがけない展開が待ち受ける──。

 

ちなみに、3枚の広告看板の内容は、地元警察の署長であるウィロビーを名指しで批判したもの(ミルドレッドによると「管理職が責任を取るべき」とのこと)。街の住人に敬愛される彼を批判してしまったがゆえに、ミルドレッドは悪意を受けることとなってしまう。更にウィロビーは病人であり、先が長くない。それを知った上でミルドレッドは広告を出稿しているわけだから、明確な”悪意”があると第三者から見たら捉えられる。

 

だが、それは”悪意”なのだろうか?というのが「スリー・ビルボード」の肝である。

 

勘違いと正義感による攻撃の連鎖(以降ネタバレ)

スリー・ビルボード」は重たい。私が見終えた後抱いた感想は、「登場人物誰もが不幸じゃねえか」である。

ミルドレッドの広告出稿を機に、小さな町の中で登場人物の不幸の連鎖が始まる。

端折った上で物語中盤のネタバレをしてしまうが、

 

◆ウィロビーが自害する

ミルドレッドの広告が原因ではないことは遺書で明らかになっているが、当然彼の家族や部下たちは、ミルドレッドの行為が不届きであるという印象を持つことになる。

 

◆ウィロビーの部下(ディクソン)が、看板の広告枠の持ち主(レッド・ウェルビー)に暴行

ウィロビーの自害を知り、彼を慕っていたディクソンが、半ば八つ当たりに近しい形で、広告出稿を許した代理店オーナーのレッドに大けがを負わせる。ディクソンはその事件をきっかけに、解雇される。

 

◆3枚の広告が燃やされ、激昂したミルドレッドが警察署に放火

ディクソンが解雇された晩、3枚の広告が放火される。警察による仕業だと勘違いしたミルドレッド(後にミルドレッドの元夫が放火したことが判明)は、警察署に放火を行う。

間が悪いことに、警察署にディクソンが忍び込んでおり、ディクソンも火傷の重症を負う

 

・・・といった感じで、強い行き場のない悲しみに囚われたミルドレッドを起点に、登場人物の盲目的な信念の掛け違いによって、更なる悲劇が重なっていく形で物語は進行する。

ミルドレッドの娘をレイプした犯人こそが悪人であるはずなのに、罪なき登場人物たちが罪を重ねてしまう。その”救いようのなさ”が、観客としては苦しくてしょうがない。

 

それでも人は善意を持ち合わせている。

この物語の登場人物たちは自らの信念の元、他者を攻撃してしまう。自らが責められたら、防衛本能的に敵を攻撃してしまうイメージに近しいと思う。

自分がこういう状態に陥ったときのことを想像してほしいのだけれど、冷静になってみると「そんなに責める理由なんてなかったな」と思うことがある。決して攻撃対象を憎んでいるわけではないのだ。

 

この物語が持ち合わせている唯一の救いが、攻撃しあっているが、決して悪人ではないということ。要所要所で、人の善意を感じる場面、復讐に囚われていた人間が考えを改める場面が訪れる。

 

ミルドレッドが、口論中に吐血したウィロビーを気遣う場面(ここで「ざまあみろ」なんて言ったら興ざめだ)。

 

火傷を負い入院したディクソンに対して、レッドがオレンジジュースを差し出し気遣う場面(ディクソンに大けがを負わされたのに)。

 

広告を燃やした元夫を罵るのではなく、ワインを差し出してその場を去るというミルドレッドの大人な対応。これは放火した彼女を庇ったジェームズを傷つけてしまった罪滅ぼし的な意味合いが強いと思うが、それでも彼女の心情に変化が表れているのは明確である。

 

あとは敬愛するウィロビーの遺書を受け取り、考えを改めたディクソンが、ミルドレッドの娘を殺害した真犯人を探そうと努めたところだろうか。

正確には遺書を夜の警察署で読んでいたところ、ミルドレッドの放火により重傷を負い、その後犯人捜しに動くのだが、彼がミルドレッドによる放火であることを認識したうえで犯人捜しを行ったのが彼の最大の改心ポイントである。

 

このように、復讐に取りつかれ他者を傷つけてきた登場人物たちが、他者の許しを得たり、他者の傷を理解することで、真っ当な精神性を取り戻していく。罵り合いの果てに、人間の善意が垣間見れるのが、この物語の唯一の救いであり、言い方を変えれば、そういった絶望的な状況の中での善意だからこそ輝かしく見えるのだ。

 

"不幸中の幸い"なオチ

物語の結末を書いてしまうと、改心したディクソンは町のバーで遭遇したレイプ殺人犯と思われる人物のDNAの採取を行う。しかし、その男のDNAはミルドレッドの娘を殺害した人物ではなかった。

落胆するミルドレッドとディクソン。しかしディクソンは、ミルドレッドの娘は殺害してなくても、誰かをレイプし殺人した人間であると思われるその男の元に向かうことにする。ミルドレッドも同行することに。

道中、ミルドレッドが警察署に放火したことを告白。それに対してディクソンは「知っていた」と回答。彼らはそのレイプ殺人犯を殺すかどうかの話に移るが、「どうするかは道中考えれば良い」と結論付け、物語は終わる。

 

つまり、ディクソンとミルドレッドはレイプ犯の元に行くことを決意したものの、殺害するかどうかは決めていないのだ。物語として、その結論は出していない。

 

自らが傷つき、他者を傷つけ、傷つけるべき対象が違うと物語を通じて悟ったミルドレッドとディクソンが、初めて「明確に傷つけるべき相手」を見つけたのだ。彼らにとっては鬱憤を晴らすための恰好の攻撃対象なのだ。

しかし、道中で「彼を殺すかどうかはあとで決めればよい」と語り合っている。その後どうなるかわからないが、”この時点で殺意を抱いていない”ということがこの物語が伝えたいことなのだろう。物語中盤の精神状態であったら、ミルドレッドもディクソンもこの時点で殺意満々になっているはずである。彼らも彼らなりに変わったということがこのシーンで明確になっているのだ。だからこそ、結論付けない終わり方をしたのだと思う。

 

自らを邪道に走らせない自律した精神性を取り戻し、互いを理解し許しあえる人間を得たことが、ミルドレッドとディクソンへの救いであり、"不幸中の幸い"だったのではないだろうか。

 

 

母親に「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」をオススメされる息子の気持ち

※この投稿はライトな下ネタを含みます。ご注意。

 

movies.yahoo.co.jp

この映画をご存じだろうか。

 

「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」という映画である。恋愛小説原作の3部作で、既に2作目の「フィフティ・シェイズ・ダーカー」まで実写化されている。

Wikipedia曰く「女子大生の主人公が、若く有能だがサディストの性的嗜好を持つ大富豪の男性と知り合い、BDSM(SM)の主従契約を結ぶという内容」とのこと。ずいぶん過激な内容である。当然のごとくR18である。

 

私も健全な成人男性なので「R18」という表記に全く心が躍らないかと言ったら嘘になってしまうが、この作品は見たことがない。というか、R18作品をレンタルビデオ店で借りてみたことが一切ない。「R18の作品を借りたら、R18な描写を目的に借りているのではないか」という自意識が作品との出会いの邪魔をする。変に洒落ているがゆえに、何だかアダルトビデオを借りるより恥ずかしい。

 

「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」についての印象はこうだ。

 

強烈に見たいわけではないが、見たらまぁそこそこ面白いであろうことは予想できる。しかしR18がゆえに手を伸ばしにくい。わざわざこの作品を見るのであれば、別にみるべき作品があるはずだ。

 

おそらく私の生涯はこの映画を見ることのないまま終わるのだろう。

そう思っていた。

 

さてここからが本題である。

私は齢25となるのだが、情けないことに未だに実家暮らしをしている(東京は家賃が高いし、給料は低いし仕方がない)。一般的な家庭である。必要以上に仲が良いわけでもなく、険悪なわけでもない。ただ家族として生活を営んでいる。

そんな当たり障りのない生活を共に過ごしていたはずの母親が、R18作品「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」を視聴することを強烈に推薦してきたらどうだろうか。

 

ある日突然、親子冷戦の火蓋は切って落とされた(明確な喧嘩ではないが対立しているという意味で冷戦である)。リビングで二人で食事をとっていたときの出来事である。

 

「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイって映画が面白いのよ。日曜日返却だから、まだ見る時間あるでしょ」

 

一応私は映画ブログで記事をつらつら書いている人間である。その映画の存在はもちろん知っていた。しかし、その映画は下手に首を突っ込むには、母親と意見を交わすには危険な作品だ。

 

私は、すぐさまその話題を終わらせようとした。

 

「ふーん、面白そうな映画だね。時間があったら見てみるよ」

 

それで終わりでよかったはずなのだ。お茶の間で可愛らしい二次元の女の子が甘いセリフを吐き散らして去っていく15秒間と同じような対処法。恥ずかしがるでも嫌がるでもない、反応しないという最良の選択。


【CM】ガールフレンド(仮) 話題のクロエ・ルメール3本立て

↑母親とテレビを見ているときに反応に困るCMの例。しかし、クロエ・ルメールちゃんは可愛い。

 

しかし母親はこの程度では止まらなかった。

 

「18歳以上なんだからあなたも見れるわよ」

 

2連続で気まずいCMが流れた気分である。お茶の間は冷え冷えだ。

ファーストコンタクトよりはツッコミやすい内容なので、まだマシではあるが話がそういった方向性に進むことはもはや避けられない。


【炎上!放送中止】サントリー 頂 CM 絶頂うまい出張1/6 北海道編

↑「いやこれは狙ってるっしょw」と弄りやすいCMの例。面白いCMだから好きなんだけどね。

 

あなたも見れるわよ、って。人にオススメすることを趣旨とした記事を何本も書いているが一回も使ったことないぞそんなセリフ。小恥ずかしい言葉を使わず端的にR18であることを示した素晴らしい表現ではあるが、それを言われたら余計手を付けるわけにはいかなくなる。

これ以上無視を続けるわけにもいかなくなった私は次の手に出る。

 

「あーそうなんだ。見てみるから内容は言わないでね」

 

これ以上母親からあらぬ発言が飛び出ないようにするための私のファインプレーである。SM的な要素が多少なり含まれるであろう本作の内容について話されたら、たまったものじゃない。母親像が崩れ落ちて灰となり、その灰を吸引した私はアレルギー症状を引き起こすだろう。

 

しかし20年以上生活を共にした家族という存在は厄介である。

私があまり見る気がないことを察したようで、あらぬ方向から攻撃を仕掛けてきた。

 

「アダルトビデオじゃないんだから」

 

その軸でR18映画を語るな!!!

いや、その軸で見てしまうのはよく分かるんだけど、堂々と言うんじゃない!!!

 

おそらく彼女の言葉の後には、「恥ずかしくないわよ」が続くのだろう。

もう私は言葉を濁すしかなかった。「確かにね、ははは」。

アダルトビデオの有用性を語ることも、映画とアダルトビデオの違いを語ることも、頑なに見ないことも、R18を意識しているという私を母親に露呈していることとなり、それはすなわち息子からすると敗北であった。かといって、平気な顔して他の映画と同じようにリビングで視聴することに、私の羞恥心は耐えきれないだろう。それ以前に、映画を見てしまったら「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」のR18のシーンが母親と共有されてしまうのだ。何だか、いやなのである。全国の男子諸君は分かっていただけると思うが、何だか、いやなのである。

 

見ても地獄、見ずとも地獄。

私は逃げるようにしてリビングを後にした。

いくつになっても親には敵わないのである。

私の母親は、単に面白い作品を息子に紹介しただけだったのだ。世の中に存在する多くの作品のうちの一つとして。性描写の有無で作品を評価しようとしている私よりもずっと上手である。

 

結局、私はまだ「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」を見ていない。悠長に構えていたら続編「フィフティ・シェイズ・ダーカー」も母親が借りてきた。映画好きな母親が気に入っている以上、きっと面白いはずなのだが、家族という枷が私の視聴の邪魔をする。

 

早く大人になりたい。下らない自意識を捨てられるような大人に。

いつか、このブログで「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」の感想を書けることを信じて、今日も私はアダルトビデオを視聴する。

 

【グレイテスト・ショーマン】成功の光と闇(感想:ややネタバレ)

www.foxmovies-jp.com

見てきました。

ラ・ラ・ランド」の製作チームが贈る!的な触れ込みがあった気がするけど、楽曲が「ラ・ラ・ランド」でアカデミー賞を受賞した方らしい。監督や脚本は別だということを私は見てから知った。

 

あらすじはwikiを見ればしっかり書いてあるので、細かくは書かないが感想を書く上でざっくり内容に触れる必要があるのでその程度のネタバレはご了承いただきたい。

 

ちなみに後からブログを書くために調べた結果知ったのだけれど、主人公のP・T・バーナムは実在した人物らしく、つまりこの映画は「史実に基づく物語」ということになる。

遥か昔に読んだ「実業者の成功物語」的な自己啓発本(タイトルさえ覚えていない)と「グレイテストショーマン」が、全く関係がない作品であるのにも拘らず内容の大筋が似通っていたので、勝手に驚いていたのだが、この世に生まれるいわゆる成功者と言われる人間がが辿る道筋はおおよそ同じようなモノなのだろうと妙に納得してしまった。

 

余談が過ぎたが、本作の魅力を語りたい。

やはりミュージカル映画は見栄えが良い


映画『グレイテスト・ショーマン』予告D

予告も最初10秒の引きがすごいが、まさしく本編もこのシーン・歌から始まり、主人公のバーナムが回想する形で物語が展開されていく。

 

音楽と役者の動きで魅せる作品はやはり没入感が違う。オープニングの引きが良い作品は勢いで最後まで気持ちよく見ることが出来るが、この作品もその類の映画。

 

また、ショービジネスが物語の根幹にあるので、劇中に幾度も訪れる歌と踊りで構成される"ミュージカル"なシーンは刺激的で楽しい。

バーナムが酒場でフィリップ・カーライルを口説くシーンの、ショットグラスで酒を開けながら交渉を進めるパフォーマンスが一番の好み。ヒュージャックマン演じるバーナムは主人公として圧倒的な存在感を放っていたのだが、ザック・エフロン演じるフィリップ・カーライルも第二の主人公としてかなり見せ場があり、彼が歌っているシーンは総じて良かった印象。空中ブランコ演者のアンと宙を舞いながら歌っている様は圧巻だし、ラストシーンでバーナムから帽子を受け取りステージに躍り出る彼の楽しそうな表情が目に焼き付いている。

 

本作の軸は①「成功」の定義と②個性を武器に闘う人間の在り方

脚本の良いミュージカル映画は無敵である。

グレイテスト・ショーマン」はテーマ性が強い作品であり、作品が伝えたいメッセージが分かりやすい。かつ、我々が期待する結末に向けて物語が進行していく期待を裏切らない盤石な構成をしている。歌と踊りで完成を揺さぶる系の作品は、視聴者の気持ちが離れないように矛盾なく堅実に物語を進めて、期待通りの結末に落ち着くことが大事だと勝手に私は思っているのだが、本作もその類の作品であった。

 

見出しに書いたように、テーマは2つ。

①「成功」の定義

バーナムは貧困層の生まれであることがコンプレックスで、個性と才能に恵まれながら社会から疎外されている人々(公式HPではこのように記載されている)を起用したショービジネスで成功をおさめながらも、上流階層に認められる「本物」のショーを魅せたいという野望を抱き、歌姫ジェニーリンドを起用したショーにのめり込んでいく。

元々家族の幸せのために努力を重ねていたバーナムが、その本来の目的を忘れさらに高みへ高みへと貪欲に邁進していく様は見ていて心が痛かった。(富裕層が集まるパーティからショーのメンバーを締め出したシーンにはイラっと来た観客も多かったのではないだろうか)

 

結果的にジェニーリンドとの恋がこじれてバーナムは失脚、一度は家族を失いかけることとなるが、バーナムが起用したショーの団員に助けられて返り咲く。

家族サービスのために後継者に出番を譲りショーの本番を中座する形で物語は締めくくられるが、人間にとっての幸せや成功の定義に一つの答えを出していてとても救いのある物語だと私は感じた。

 

②個性を武器に闘う人間の生き方

本作主題歌の「THIS IS ME」はバーナムのショーで髭女として活躍しているレティ・ルッツによる劇中歌。歌詞を見れば分かるが、社会的に阻害されていた要因であった個性を才能と再認識しに自らを主張する勇気を得た様を歌っている。

 

現代においては彼女のような身体的に特徴がある方への差別も少なくなってきているが、バーナムが生きた当時は今よりもずっと差別的で、劇中でも彼女らは何度も何度も阻害されている。しかし、ショーのスターとして活躍することで彼女らは自信を得て、自らを隠す必要がないと力強く生きることを決意する。その様を見ているとなんとなく勇気が湧いてくるのだ。

 

だが、本音を書いてしまうと、いわゆる「社会的マイノリティ」(語弊があるかもしれないがこのように表現してしまう。wikiによると「多くの場合、そのグループの一員であることによって社会的な偏見や差別の対象になったり、少数者の事情を考慮していない社会制度の不備から損失を被ることを前提とした呼称」とのこと。)をテーマとして扱った作品は重くなりがちだと思う。少なくとも私自身は重いと思ってしまう。

 

「差別的な不必要かもしれない配慮」のようなものをしてしまうのだ。「あぁ気の毒だなあ」という気分で見てしまうのだ、どうしても。作中の差別的な描写が多ければ多いほど、「辛いなあ」という気分が積み重なってしまい、彼らが救われるシーンが訪れたところで、その積み重ねた負の感情が払拭されることはまずない。

 

しかし「グレイテスト・ショーマン」においては、テーマ2つのバランスが上手く取れているので、見てて目を塞ぎたくなるような重さはない。

主人公であるバーナムは基本的にショーを成功させることだけを目的に仲間を募っており、いい意味で彼はショーで活躍する団員達に対して無頓着だ。そのため、彼を中心に展開した物語である以上、「マイノリティが活躍するには・・・」的な説教じみた内容には決してなっていないし、「彼女らが迫害されている」という描写も悲劇的に描かず、彼女らが乗り越えるべき一つの壁程度の扱いにとどまっている。

 

ただ、「THIS IS ME」を彼女らが歌い、その気持ちに我々が共感する。その描写にとどまっているからこそ、不必要な配慮をすることなく、彼女らに感情移入できた。それで十分なのである、歌の力はすごい。

 

まとめ

綺麗にまとまった優等生的な作品。

マイケルグレイシーさんはまだ監督としての実績は浅い方だと思うけれど、これだけ面白い作品が作れるなら次もぜひ見たいと思ったところ・・・『NARUTO -ナルト-』のハリウッド実写映画版の監督をやるらしい。

楽しみだってばよ。

 

 

自己啓発本は「残酷すぎる成功法則」を読めば十分なのではないか。

 

残酷すぎる成功法則  9割まちがえる「その常識」を科学する

残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する

 

 

 

私は、自己啓発本を読むのが大好きで、特に具体的な行動に起こさず「世の中はこうなっているのか」と知的好奇心を満たすことに喜びを感じる。

 

特に行動は起こさないので、「この本に書かれていることは間違っている!」と実証できることは少ない。そもそも自己啓発本に書かれていることなんて、短期的に成果が出るものは少なく、「本当に効果があるか」検証するのは困難である。

 

しかし、読者が実践しなくても「これは効果があるな」と納得して読み進めることが出来る自己啓発本もある。データ・エビデンスがしっかりと記載されているものだ。

多くの人がこのような行動をとって、このような結果が出ている。

そういった証拠をつきつけられれば、「まぁ私が実践して失敗したらたまたま外れ値だっただけだよね」と認めざるを得ない。そもそも私は行動には起こさないのだけれど。

 

世の中には「証拠もなく(自ら、あるいは周囲の少数の人間の経験を証拠としている)主張している自己啓発本」が溢れかえっている。そういう本は「この人はこういう法則を信じているんだな」とエッセイを読む感覚でいると面白いのだが、基本的に自己啓発本に求める要素は違う。

成功する法則を教えてほしいのだ。そのためには、データ・エビデンスに基づかれた法則が書かれていなければ話にならない。

 

前置きが長くなったが、要は何が言いたいかというとこういうことだ。

「残酷すぎる成功法則」は本当に成功できそうな法則のみが記載されている素晴らしい本だ。エビデンス・データにもどついたこの世の法則が余すことなく記載されている。

 

内容を頭に叩き込むためにアウトプットの意味を込めて印象に残った部分をメモ書きさせてもらう。

なお、以下に書く内容は「本に記載されている内容そのものではなく、その内容を読んだ結果私が感じ取った結果」でしかないので、内容と多少ずれている部分もある。正確な成功法則は、本を読んで学んでほしい。

 

第1章 成功するにはエリートコースを目指すべき?

全部80点より、100点に近しい強みを見つけて、それを活かせる場を選ぶこと。

 

第2章 「いい人」は成功できない?

王者は結局いい人、ずる賢い人は頂点にはたどり着けない。

ゲーム理論の"回答"が記載されている(「基本は相手を信じる、裏切られたら相手と同じ行動をする。時折相手を許す」が最強らしい)。

妬まない、自分から裏切らない、相手の行動に則る(裏切られたら裏切る/しかし時に許す)を心がければ良い。なお、私利私欲を全く考えない聖人は搾取されるので、裏切られたときの対応は大事。

 

第3章 勝者は決して諦めず、切り替えの早い者は勝てないのか?

この章はメモしておきたい箇所があまりに多すぎるので、総論を簡単にまとめることが出来ない。自分の目標を達成するための術があらゆるアプローチから記載されている章だ。私が覚えておこうと思ったことだけ記載しておく。

 

引き寄せの法則」は自分が達成したことを想像することで満足を覚えてしまい、本当の実現から遠ざかってしまう可能性があるものだということ。しかも、脳が虚の達成感で満たされた後に現実を直視したときに、落ち込みやすい。

 

「WOOP」に則って目標達成への方法を考えるとよい。

願いをイメージする、願いがもたらす成果を具体的にイメージする、現実とのギャップを洗い出し願いに至るまでの障害をリストアップ、障害に対処する方法を考え計画を立てる。

 

第4章 なぜ「ネットワーキング」はうまくいかないのか

人間関係を円滑にする方法や人脈作りの方法が記載されている。私はピンとこないが、メンターがいる人の方が成功しやすいという話もあった。

友達を作るためには、「共通点を見つける」「相手の話をよく聞く」「相手に与える」を心がけるとよい、らしい。私にはこれだけで十分だ。

 

第5章 「できる」と自信を持つのには効果がある?

自信を持つことよりも、「セルフ・コンパッション」(自分自身への思いやり)が大事。この章はこの一言で片付く。

自信を持つことのメリットデメリットを散々述べた後に、究極の解「セルフコンパッション」を登場させる展開には痺れた(そういう楽しみ方をする本ではないかもしれないが)。

 

第6章 仕事バカ……それとも、ワーク・ライフ・バランス?

 時間をつぎ込めばそれだけ出世できるけど、家庭とのバランスは???的なジレンマについて。自分が望むバランスを知って、それに近付けることが幸福への近道とのこと。

幸福の構成要素は以下4つ

・幸福感=楽しむ

・達成感=目標を達成する

・存在意義=他者貢献する

・育成=誰かに何かを伝える

これらをバランスよく組み合わせて(自分が望むように)、それに近しい生活を送るのが一番幸せ。

そのためには、①今の生活・日々の行動が上記4つのうちどこに当てはまっているのかを分析し、現状のバランスを知る。そして、②自分の理想のバランスに近づけられるように、日々の行動を変えれば良い。

 

まとめ

以上が、私が「残酷すぎる成功法則」を読んで感じ取った全てである。

特に第3章は自己実現のための方法が結構厚めに書かれているので、ぜひ読んでみてほしい。

 

 

UNISON SQUARE GARDEN TOUR 2017-2018「One roll, One romance」2018年1月28日@幕張メッセ

unison-s-g.com

行ってきました。

10% roll, 10% romance 」「Invisible Sensation」「fake town baby」3枚のシングルをひっさげたツアーの最終日。

幕張メッセなのでかなり収容人数も多い広い会場。一番前のブロックの最後の方の番号だったので、まぁギリ本人が目視できるけど、基本的にはステージの真上にあるモニターを見ながら楽しむって感じ。

http://unison-s-g.com/1718/oror/assets/img/areamap.pdf

↑会場。私はGブロックの7000番台でほぼ最後尾だった。

会場全体の人数は7000×3=21000~25000人ぐらいだろうか?

 

当然各ブロックの前の方は人が密集していたのだけれど、後ろの方だと結構スペースがあるのでホールでのライブよりもリラックスして楽しむことが出来た。

 

ちょくちょく感想を書いていく。

 

セトリ

www.livefans.jp

素敵な外部リンクの貼り付けをしたので、ここから確認ができます。

 

シングルのツアーなので、カップリング曲が多め。「Invisible Sensation」「fake town baby」のカップリングも演奏するかと思ったけど、今回はなかった。別の会場ではやっていたのかもね。

 

flat song」「RUNNERS HIGH reprise」・・・「 10% roll, 10% romance 」のカップリング

「ノンフィクションコンパス」・・・「桜のあと(all quartets lead to the?)」のカップリング

「誰かが忘れているかもしれない僕らに大事な001のこと」・・・「流星のスコール」のカップリング

 

以上・・・かな?

知らない曲はなかったけれど、聴き馴染んでいる曲は少なかった印象。とは言ったもののライブの定番曲「徹頭徹尾夜な夜なドライブ」「シュガーソングとビターステップ」「シャンデリア・ワルツ」が入っていたので、大満足。

 

最新アルバム「MODE MODE MODE」から1曲ぐらいは新曲もやるんじゃないかと期待していたけれど、収録曲からの演奏は既に発売されているシングルのみ。

MODE MOOD MODE (初回限定盤A) [CD+Blu-ray]

MODE MOOD MODE (初回限定盤A) [CD+Blu-ray]

 

 


UNISON SQUARE GARDEN「君の瞳に恋してない」ショートVer.

これやるかなーって思ってたけど、UNISONはツアー中は公演演目にあまり変化を出さないタイプのバンドだった。ので、当然10月ぐらいから回ってるツアーの演目に入ることはなかった。

MCハイライト

スプラトゥーンおじさん鈴木貴雄、お隣で開催中の次世代ワールドホビーフェアの小学生スプラトゥーン大会の結果に興味を示す。

作詞作曲おじさん田淵智也、曲を作りすぎ問題。ハイペース過ぎてビビるけど、ファンは嬉しくてしょうがないよね。

 

「ファンが多くなって大きな会場でやってみよう!と思ったけど、ちゃんと楽しかったです」と斎藤さん。私もホールでの公演よりはスタンドの方が好きなので、思いっきり楽しんでしまいました。

ソロ

ギター、ベース、ドラムがソロで思いっきり魅力を発揮するコーナーが今回もあったのだけれど、何やらテーマメロディみたいのが開発されていた。ワンモア!ワンモア!(←「MODE MODE MODE」の初回特典DVD見てると、ワンロール、ワンロマンスとっていってるね、訊き間違いでした。ツアーのタイトル叫んでたのね)と叫びながら軽快なギターのメロディの間にベース、ドラムソロが入っていく感じ。

※どの曲の前後だったか覚えていないけど、曲として独立していた印象。

 

ぜひ次のツアーでも聞きたい。そのまま曲になって発売されないかしら。歌詞ないけど。

 

まとめ

右腕が痛いが、明日の仕事へのハードルを一切感じない強靭な精神状態で帰路に就くことができた。ライブはアクティブな瞑想。マジマインドフルネス。

 

 

【勝手にふるえてろ】松岡茉優が可愛い(感想:ネタバレあり)

私のブログタイトルは大体以下のような構成となっている。

 

【タイトル名】一言で感想(感想であるという事実:ネタバレがあるかなないかの申告) 

 

例えば

 

勝手にふるえてろ松岡茉優が可愛い(感想:ネタバレあり)

 

といったように。

もっと別の一言感想がないものかと一度書いてみて首を捻ったのだが、いや、まぁ可愛いものはしょうがないし、見ている間「何でこんなにも可愛いんだろう」と何度も思ったからその気持ちを素直に綴っただけである。

furuetero-movie.com

 

まぁいいんだ。とにかく見てきた、「勝手にふるえてろ」。私が昔好きだった作家、綿矢りさ原作・大九明子監督の作品。原作の「勝手にふるえてろ」も昔読んだんだけど、内容はほぼ忘れた状態で映画版を見るに至った。

 

現実にいたとしたら見るに堪えない痛々しいヒロイン:ヨシカが、松岡茉優持ち前の可愛さと物語に散りばめられているくすっと笑えるネタ(本作はかなりコメディ寄りだ)で見事に緩和されており、直視するに値する程度の絶妙なバランス感を保っている。

私の記憶が正しければ原作はもっとヨシカと彼女に付きまとう「ニ」が痛々しく描かれており、特にヨシカの心情など毒毒しくて、痛々しくて、読んでいて苦しいぐらいだった。よくある人間の汚い、直視したくないような一面をリアルに鮮明に描くのが綿矢りさの魅力。僕が一時期ハマった理由であり、離れた理由でもある彼女のエッジの利いた描写は、映像化することで随分マイルドになっていた。

 

まぁ色々言ったが好きな映画だったので、ちょいちょいと語っていく。

ネタバレありなので注意。

 

ヨシカがいそうな痛々しい女子。でも憎めない。

ヨシカが可愛い。彼女は人間関係を難しく考えすぎている。考え過ぎ、意識し過ぎの結果、我々が当たり前のようにできている人間関係がぎこちなくなってしまう。

「ペダルをこいで…ハンドルはこう握って…」と意識して自転車に乗る人は、自転車に乗るのが下手な人だ。そんなこと意識しないで自らの身体の様に操れている人は、自転車がちゃんと乗れる人だろう。コミュニケーションが苦手な人というのは、前者のように一々考えてしまう。ヨシカは人間関係を、コミュニケーションを極端に考えてしまう女の子。

 

我々の身の回りにギリギリいそうなレベルの変人なのだ。「ニ」が「分からないところが魅力」と終盤に語っていたが、全く同意である。魅力がある神秘性があるような、変人。

24歳なのに中学時代からろくに話したこともなかった「イチ」がずっと好き。脳内に彼を召喚して恋愛した気になって楽しんじゃう。そのため、処女。でもどうでもいい空気の読めない、だけど優しい「ニ」に告白されて舞い上がっちゃう。

「イチ」に再会するために積極的になるけれど、コミュ力高めの女の子に先を越されて結局詰めはうまくいかない。女友達に恋愛相談をしておきながら、自分のクリティカルなコンプレックスをつかれた瞬間激昂する。コンプレックスをこじらせて妊娠した、なんて言っちゃう。

彼女の一々極端な考え方をし、行動してから考え、必ず後悔するような生き方はまさしく世間に居がちな「この人接しにくいなあ」という人そのものである。

 

リアルにいればどうしようもない痛々しい女性なのだが、そこはドラマの力が働いており、松岡茉優持ち前の魅力で「がんばれー」って気持ちで見れてしまう。一歩間違えればうざいヒロインで終わるのに、僕は物語の最後に「何て可愛い人なんだ」とほのぼのしてしまった。

だって、可愛いんだもの。男は、いや、男はというよりも、僕はバカである。単純なのだ。

まぁそれだけでなく、ちゃんと演出も工夫していた。ヨシカは逐一自分の感情を第三者に吐露する。映像作品にしては多すぎるほどの丁寧な彼女の感情の説明が、我々視聴者を置いてきぼりにしないようにしている。

ヨシカが話しかけていたと思っていたのはただの彼女の妄想で、彼女は誰とも話しておらず脳内で会話していただけだった、ということが物語の中盤で明らかになるのだが、あれは良く出来た演出だと思った。

彼女の感情を丁寧にヨシカ本人に語らせることが出来るだけでなく、「イチ」に名前を憶えられていなかったヨシカがなぜ覚えられていなかったかの理由が視聴者に明確に伝わる(つまりは、他者と関わっていたつもりで、他者と関わっていなかったことが原因)。

 

公式HPにヨシカは「絶滅危惧種ヒロイン」と紹介されているが、まさしくその通りで、物語に大切に育てられながらしっかりと最後に「ニ」と結ばれる。その過程を得体の知らない生物を観察するような感覚で楽しめるのがこの映画の魅力なのだ。

 

人との関係がテーマ

前述したが、ヨシカは片思いしていた「イチ」の気持ちは一切理解しておらず、さらに「イチ」には名前さえ憶えられていなかった。その時、彼女の世界は崩壊する。

話している、仲良くしているつもりだった街中の愉快な友人達は、ただ一方的に見ていただけの人間。

彼女はまともに人間と向き合うことをしていなかったことが中盤で明らかになるのだ。

 

そこからの彼女の狂いっぷり(恋愛相談までしていた友人への暴言、「ニ」の切り捨て、妊娠偽装)といったら最高である。確かにこじらせているのだが、それは「人と向き合う、感情をぶつける」という彼女が今までまともに出来ていなかっことへの挑戦でもあるのだ。そしてラストシーンには「ニ」との激論の末キスまでしちゃう。

何たる進歩。人間関係が構築されるまでの段階(関わらない⇒とりあえずぶつかる⇒和解する)を一つ一つ歪に上り詰めていくヨシカの姿に涙が止まらない。

 

勝手にふるえてろ」はコミュ障が人間関係を体当たりで学んでいく成長物語なのだ。同じくコミュ障の私は、「あぁ、、あああ!!ああああああ!!!」と悶絶しそうになった、愛おしくてしょうがないのである。

 

ギャグ のおかげでテンポが良い。

ラブホ前の攻防。ニックネーム「オカリナ」さんの本名。コンビニ店員の正体。そして何より「ニ」の言動の8割。面白い!ポイントが作ろうとしているからこそ、「痛々しい話」ではなく「笑える話」として肩の力を抜いて見れる映画になっている。

特に「ニ」は良い。へなっとしたやらかい笑顔を浮かべる渡辺大知を「うざい」と切り捨てる奴はまぁいない。あんなに良さそうな人なのだから、「ニ」を許せる気持ちになる。松岡茉優もだが、渡辺大知も相当のはまり役で、「勝手にふるえてろ」はこの二人に支えられた作品であるといっても過言ではない、と思う。

 

まとめ

松岡茉優は、可愛い。