【打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?】小説の方の感想(ネタバレあり)
僕の読解力が欠如していたため、映画の結末がよくわからなかった。
というわけで、脚本の大根仁氏が書いたノベライズ本を読むこととする。
1hほどで読み終わるあっさりとした内容であった。映画の内容とほぼ相違はない印象。
それでも特徴を多少記載したい。
基本は典道くんの一人称小説
物語は映画と全く同じ形で進行していく。
こちらネタバレなし記事だけど、一応映画の感想を貼っておく。
あのシーンで彼は何を思っていたのだろう?という疑問に答えを出してくれるのがノベライズ本の良さだと思うけれど、中学一年生の典道君っぽい文体で物語が進んでいく。まぁ文体が多少稚拙な感じがあるが、それは彼目線だから仕方がないということにしておこう。
驚くべき脚本形式
一番驚いたのが、典道君がいない場面の描写。
三人称で描くのかなあと思ったら、まさかの脚本形式!!!!
こんな小説は初めて読んだが、新鮮で面白かった。
イメージがわかない人のために、こんな感じだよって例を記載する。
A「xxxxx」
A、〇〇する
B「zzzzzz(〇〇しながら)」
みたいな感じで書かれている。本当に。
ここは小説っぽく頑張ってほしかったところではあったが、それも脚本家である大根仁氏のこだわりなのかもしれない。
したがって、残念ながら典道君以外の登場人物の心情については一切明かされず、基本的には典道君もしくは神の視点からカメラを通じてみた彼らの「行動」しか見ることが出来ない。映画を本当にそのまま文章に落とし込んだってイメージだ。
オチの意味は
僕が読解力がなくわからなかった最後のシーン。文章で読むとこんな感じだったらしい。
◆「もしもなずなといられたら」の世界線は、最後のおっさんが球を打ち上げたタイミングで終わり、元の世界に戻っている(なぜなら花火が正常な形だったから)。これまでは典道君が「もしも」と願って球を投げたら世界線が変わっていたのだが、最後だけこのような形で世界線が元に戻ったかについては特に記載なし。
◆映画の最後のシーン、先生が典道を教室で呼んでいるシーンは小説ではカット。あそこについては触れていない。
というわけで、僕が疑問に思っていた最後のシーンの謎については特に記載がなかった。残念だが、原作の実写版「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」も「もしも」の理由なんて描かずに、彼らの青春のみずみずしさを描いた作品だったので、細かい設定などどうでもいいのかもしれない。
しかし、もしも玉というモチーフを使い、何度も「もしも」の世界を超えるストーリー構成にしたならば、そこの謎はしっかりと解決してほしかったというのが僕の考えだ。
ちなみに原作の方は、もしも玉はなく、なずなが親に連れ戻され典道が祐介殴ったシーンの後に、「もしもプールでのレースに勝ったら」のストーリーが展開され、そのまま元の世界(=典道が負けた世界)に戻ることなく物語は終わる。
まぁどちらかに優劣があるわけではないが、アニメ版の方はかなり消化不良のまま終わってしまったなあという印象であり、小説を読んでもなんだかそれは同じままだった、というオチだ。
ちなみに、大根仁氏も「あとがたり」にてぜひとも映画版を見てほしいとおっしゃっている。まぁ彼の本業は脚本だし、それはそうなんだろうなあと。映画へのいいバトンタッチは出来ているんだろうなあといった内容の小説でした(=映画を見ている人は、小説は読まなくてもいいかもしれない)。