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【スリー・ビルボード】フランシス・マクドーマンドが主演女優賞獲ったから感想(感想:ネタバレあり)

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第90回アカデミー賞・主演女優賞を「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドが獲得した。確かに彼女の”復讐に取り憑かれた狂気”の演技は迫真であった。

2週間ほど前に見ていたのだけれど、重たかったので感想が書きにくく放置をしていたのだが、改めて記憶を探りながら書いてみようと思う。

 

あらすじ

公式サイトから引用。

舞台は、アメリカのミズーリ州。田舎町を貫く道路に並ぶ3枚の広告看板に、地元警察を批判するメッセージを出したのは、7カ月前に何者かに娘を殺されたミルドレッド・ヘイズ。何の進展もない捜査状況に腹を立てたミルドレッドがケンカを売ったのだ。町の人々から嫌がらせや抗議を受けても、一歩も引かないミルドレッド。その日を境に次々と不穏な事件が起こり始め、町に激震が走るなか、思いがけない展開が待ち受ける──。

 

ちなみに、3枚の広告看板の内容は、地元警察の署長であるウィロビーを名指しで批判したもの(ミルドレッドによると「管理職が責任を取るべき」とのこと)。街の住人に敬愛される彼を批判してしまったがゆえに、ミルドレッドは悪意を受けることとなってしまう。更にウィロビーは病人であり、先が長くない。それを知った上でミルドレッドは広告を出稿しているわけだから、明確な”悪意”があると第三者から見たら捉えられる。

 

だが、それは”悪意”なのだろうか?というのが「スリー・ビルボード」の肝である。

 

勘違いと正義感による攻撃の連鎖(以降ネタバレ)

スリー・ビルボード」は重たい。私が見終えた後抱いた感想は、「登場人物誰もが不幸じゃねえか」である。

ミルドレッドの広告出稿を機に、小さな町の中で登場人物の不幸の連鎖が始まる。

端折った上で物語中盤のネタバレをしてしまうが、

 

◆ウィロビーが自害する

ミルドレッドの広告が原因ではないことは遺書で明らかになっているが、当然彼の家族や部下たちは、ミルドレッドの行為が不届きであるという印象を持つことになる。

 

◆ウィロビーの部下(ディクソン)が、看板の広告枠の持ち主(レッド・ウェルビー)に暴行

ウィロビーの自害を知り、彼を慕っていたディクソンが、半ば八つ当たりに近しい形で、広告出稿を許した代理店オーナーのレッドに大けがを負わせる。ディクソンはその事件をきっかけに、解雇される。

 

◆3枚の広告が燃やされ、激昂したミルドレッドが警察署に放火

ディクソンが解雇された晩、3枚の広告が放火される。警察による仕業だと勘違いしたミルドレッド(後にミルドレッドの元夫が放火したことが判明)は、警察署に放火を行う。

間が悪いことに、警察署にディクソンが忍び込んでおり、ディクソンも火傷の重症を負う

 

・・・といった感じで、強い行き場のない悲しみに囚われたミルドレッドを起点に、登場人物の盲目的な信念の掛け違いによって、更なる悲劇が重なっていく形で物語は進行する。

ミルドレッドの娘をレイプした犯人こそが悪人であるはずなのに、罪なき登場人物たちが罪を重ねてしまう。その”救いようのなさ”が、観客としては苦しくてしょうがない。

 

それでも人は善意を持ち合わせている。

この物語の登場人物たちは自らの信念の元、他者を攻撃してしまう。自らが責められたら、防衛本能的に敵を攻撃してしまうイメージに近しいと思う。

自分がこういう状態に陥ったときのことを想像してほしいのだけれど、冷静になってみると「そんなに責める理由なんてなかったな」と思うことがある。決して攻撃対象を憎んでいるわけではないのだ。

 

この物語が持ち合わせている唯一の救いが、攻撃しあっているが、決して悪人ではないということ。要所要所で、人の善意を感じる場面、復讐に囚われていた人間が考えを改める場面が訪れる。

 

ミルドレッドが、口論中に吐血したウィロビーを気遣う場面(ここで「ざまあみろ」なんて言ったら興ざめだ)。

 

火傷を負い入院したディクソンに対して、レッドがオレンジジュースを差し出し気遣う場面(ディクソンに大けがを負わされたのに)。

 

広告を燃やした元夫を罵るのではなく、ワインを差し出してその場を去るというミルドレッドの大人な対応。これは放火した彼女を庇ったジェームズを傷つけてしまった罪滅ぼし的な意味合いが強いと思うが、それでも彼女の心情に変化が表れているのは明確である。

 

あとは敬愛するウィロビーの遺書を受け取り、考えを改めたディクソンが、ミルドレッドの娘を殺害した真犯人を探そうと努めたところだろうか。

正確には遺書を夜の警察署で読んでいたところ、ミルドレッドの放火により重傷を負い、その後犯人捜しに動くのだが、彼がミルドレッドによる放火であることを認識したうえで犯人捜しを行ったのが彼の最大の改心ポイントである。

 

このように、復讐に取りつかれ他者を傷つけてきた登場人物たちが、他者の許しを得たり、他者の傷を理解することで、真っ当な精神性を取り戻していく。罵り合いの果てに、人間の善意が垣間見れるのが、この物語の唯一の救いであり、言い方を変えれば、そういった絶望的な状況の中での善意だからこそ輝かしく見えるのだ。

 

"不幸中の幸い"なオチ

物語の結末を書いてしまうと、改心したディクソンは町のバーで遭遇したレイプ殺人犯と思われる人物のDNAの採取を行う。しかし、その男のDNAはミルドレッドの娘を殺害した人物ではなかった。

落胆するミルドレッドとディクソン。しかしディクソンは、ミルドレッドの娘は殺害してなくても、誰かをレイプし殺人した人間であると思われるその男の元に向かうことにする。ミルドレッドも同行することに。

道中、ミルドレッドが警察署に放火したことを告白。それに対してディクソンは「知っていた」と回答。彼らはそのレイプ殺人犯を殺すかどうかの話に移るが、「どうするかは道中考えれば良い」と結論付け、物語は終わる。

 

つまり、ディクソンとミルドレッドはレイプ犯の元に行くことを決意したものの、殺害するかどうかは決めていないのだ。物語として、その結論は出していない。

 

自らが傷つき、他者を傷つけ、傷つけるべき対象が違うと物語を通じて悟ったミルドレッドとディクソンが、初めて「明確に傷つけるべき相手」を見つけたのだ。彼らにとっては鬱憤を晴らすための恰好の攻撃対象なのだ。

しかし、道中で「彼を殺すかどうかはあとで決めればよい」と語り合っている。その後どうなるかわからないが、”この時点で殺意を抱いていない”ということがこの物語が伝えたいことなのだろう。物語中盤の精神状態であったら、ミルドレッドもディクソンもこの時点で殺意満々になっているはずである。彼らも彼らなりに変わったということがこのシーンで明確になっているのだ。だからこそ、結論付けない終わり方をしたのだと思う。

 

自らを邪道に走らせない自律した精神性を取り戻し、互いを理解し許しあえる人間を得たことが、ミルドレッドとディクソンへの救いであり、"不幸中の幸い"だったのではないだろうか。