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【奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール】男の野望実現の裏にはいつも良い女がいる(感想:ネタバレあり)

タイトル長すぎるぜ。


『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』予告編

 

大分前に見てきて、既に劇場での公開が終わりそうなのだけれど、軽く感想を書いておく。見ていない人には向かない投稿かもしれない。雑記に近しい。読み流してくれ。

メラメラしていない「なんとなくこんな感じいいよね~」的な男の野望・・・というよりも願望なのだろうか、そんなものを主人公から感じ取れて不覚にも共感してしまった。

 

あらすじ

TOHOシネマズの作品紹介から転載。

奥田民生を崇拝する35歳、コーロキ。おしゃれライフスタイル雑誌編集部に異動になったコーロキは、慣れない高度な会話に四苦八苦しながらも次第におしゃれピープルに馴染み奥田民生みたいな編集者になると決意する!そんな時、仕事で出会ったファッションプレスの美女天海あかりにひとめぼれ。その出会いがコーロキにとって地獄の始まりとなるのだった…。あかりに釣り合う男になろうと仕事に力を入れ、嫌われないようにデートにも必死になるが常に空回り。あかりの自由奔放な言動にいつも振り回され、いつしか身も心もズタボロに…。コーロキはいつになったら奥田民生みたいな「力まないカッコいい大人」になれるのか!?

奥田民生のような飄々と自分のやりたいことをやるような大人に憧れる35歳の主人公と、小悪魔的な女性のヒロインの恋愛を描いた作品。

と思いきや、結構その内容は恋愛ばかりに振れていない。

編集者として働く主人公コーロキが、あかりをトリガーとして、仕事に奮闘していく様を描いたドラマだと僕は解釈している。

もちろん恋愛な映画なのだが、男の仕事・生き方を描いている側面の方が強いという印象だった。

だいたいの流れ(以下露骨なネタバレ)

tamioboy-kuruwasegirl.jp

公式の人物相関図を見ながら読んでほしい。

話は超ざっくり書くと、以下の通りだ。

 

コーロキは劇中であかりと付き合うことになるのだが、あかりの前の男はコーロキの職場の先輩である吉住。そしてさらに、コーロキと交際中も、コーロキの上司である編集長とも、あかりは関係を持っていた。

要するに、あかりは脅威の3股をかけていたわけだ。

で、タイトル通り、綺麗にコーロキ以外の男2名はあかりに狂わされる。

 

吉住はコーロキにあかりを寝取られて、一時休職。クライマックスシーンで編集長に顔面を切り裂かれ、その後行方不明となる。

編集長は作品のクライマックスシーンで吉住の顔面を刃物で傷つけ、挙句の果てにはあかりに切りかかろうとし、結果的に逮捕された。

コーロキは編集長が逮捕される事件があってから、自らの名前を偽り、プロデューサー?編集者?とにかくコンテンツエンタメ系の名高い人として大成する。余談だが、作中でコーロキが深く仕事上で関わる変人天才コラムニスト(安藤サクラが演じている)が登場するのだが、後日談では彼女と交際しているのがなんとも生々しくて面白い。

 

狂わせるガールは男性にとって悪女なのか。

とまぁこれだけ見るとあかりはとんでもない悪女に見えるのだが、そういうわけでもないのが面白い。コーロキが大成したのは、あかりがいたからと言っても過言ではない。

出会う男すべて狂わせるガールであることには変わりないのだけれど、「人生が狂う」というのは必ずしも悪い方向に向かうことだけを指しているのではない。

コーロキはあかりに見事に狂わされ、「奥田民生になりたいボーイ」から、「奥田民生らしくなれたとは本人は思っていないけれど、第三者からみたら奥田民生的なカッコよさを持ち合わせた大人」になることが出来た、というわけ。

 

「なんであかりのおかげでコーロキが大成した?」というのを説明しなければいけないと思うのだけれど、コーロキが仕事に熱心に打ち込む環境作りは全てあかりが行っていたからだ。詳しいことは作品を見てほしいのだけれど、コーロキが必死に頑張るタイミングはほぼあかりとあかりと尊敬できる職場の上司である編集長(オチだけ見るとただのストーカー変態野郎だが、仕事はよく出来る男という描かれ方をしていた)とのやり取りの直後だ。

で、その編集長を掌でコロコロしていたのもあかりなので、結局のところコーロキが仕事に全力で打ち込める環境を作り上げたのはすべてあかりであったように感じる。それが作為的かどうかはおいといて。

 

編集長に襲われかけた事件が起きてから、あかりはコーロキの前どころか俗世から姿を消してしまったが、コーロキに仕事に対する心構えだとか、ある種の諦め(あれだけ熱を入れてた女性が3股していた上に職場を破綻させたのだから肝も据わる)を教えてあかりは消えていった。結果、客観的に見て力まない、自分が好きなことをやっているような奥田民生的な大人にコーロキは生まれ変わったのだ。

 

「狂わせガール」の本領は、恋愛を通じた深いはりきりとその果ての絶望によって、男を大人にさせるところにある。この映画を見て、僕はそんなことを感じた。そして、そんな経験が僕にもあったので、深く共感してしまったのだ。

 

なぜ、コーロキだけ良い方向に転んだか

で、もう少し踏み込んで考えてみた。

何でコーロキだけ上手く転んで、吉住と編集長は悪い方向に狂わされてしまったのか。

吉住はともかく、編集長は決して仕事上無能な人間ではなかったはずだ。コーロキが尊敬できる程度には仕事が出来たし。コーロキの仕事への心構えを変えられる程度には、ちゃんと上司を演じていた。

 

まーこっから先はただの僕の妄想の垂れ流しなのだけれど、「奥田民生になりたい」がやはり吉住と編集長との違いだったような気がする。

自分がなりたい姿が常にコーロキの頭の中心にあった。だからあかりとの京都旅行よりも雑誌の原稿を優先できたし、あかりが自らの手から零れ落ちても精神の崩壊に至らなかった。

一方で、吉住と編集長は結局あかりが中心になってしまった。だから、あかりの消失と共に、自らも破綻してしまった。

編集長が昔の女についてコーロキに語っていて、「その女を見返すために仕事がんばろーって思った」みたいなことを言っているシーンがあったんだけど、「それって結局のところその昔の女忘れられていないよね、女に必死かよ」って僕は思ってしまった。

 

ラストシーンであかりが編集長が語っていた昔の女の話と全く同じシチュエーションでコーロキの前に現れるんだけど、当然あかりはコーロキのこと一瞥もしないし、コーロキも何一つ感情が読み取れない表情をしていたような気がする。

奥田民生の曲を聴きながら、奥田民生になりたいボーイだった過去に思いをはせしんみりするシーンで、過去との決別を果たしていたのだろう。終わったことだよね、と過去を切り捨てられる強さが、エピローグのコーロキにはあった。

 

女性のことばっかり考えているとダメだぞ!ちゃんと自分の人生歩めよ!と言われているようで、失恋して死にそうになっていた過去の僕に見せてやりたい気分になった。というかそういう過去があったがゆえに、そんな風にこの映画を解釈してしまった。

実はこの映画、友達と見に行ったのだけれど、誰一人こんな見方をしている人はいなかった。非常に残念。歩んできた人生によって作品の捉え方って違くなるんだね。

まとめ

妄想の垂れ流しが大部分を占めてしまったが、とりあえずまとめ

・女に狂わされる男を描いたコメディ的なノリ・・・を想像していたら、思ったより深い仕事論な映画であった。

・優等生的脚本。ところどころの伏線を綺麗に綺麗に回収していく。

リリーフランキーはちょい役。

 

映画では間に合わないかもしれないので、気になった人はDVDで見てみてほしい。

それでは。