【14の夜 / 傷物語Ⅲ 冷血篇】青春映画における「おっぱい」を語りたい。(感想じゃない:ネタバレなし)
新宿に出かける用事があったので、ついでに映画を2本見てきた。
そしたら偶然にも、2作品に共通して、物語で重要な役割を担っていた部位があった。
それこそ
おっぱい
である。
言い訳をしておきたいのだけど、決して僕は欲求不満だったわけではない。どうしようもなくおっぱいを求めていたわけではない。
ここまで前面におっぱいを推している映画を、2本連続で見ることになったのは、偶然の産物だ。(1800円で見なくてよい映画を選んだ結果だ。みんなビンボが悪いんや)
普段は映画1本ごとに1本の記事を書いているのだけれど、せっかく偶然にもおっぱい映画を1日に2本も見るというプレミアムな体験をしたので、青春映画における「おっぱい」の役割について、記事を書きたい。
何を見たか。
タイトルに記載してるけど、一応見たおっぱい映画について説明しておく。
①傷物語Ⅲ 冷血篇
ネタバレはしない約束なので、特にどうしておっぱいなのかについて言及はしないが、以下予告編をガン見していればなんとなくわかってくれるはずだ。
傷物語〈Ⅲ冷血篇〉本予告(2017/1/6全国ロードショー)
↑1:21
80分ちょっとと短い映画なので、1500円で見れるのだけど、その割にはとんでもない尺をおっぱいにつかっている。
映画の詳しい感想はこちら↓
②14の夜
青春ものである。14歳が真剣におっぱいを求めている映画である。
予告編も、いきなりおっぱいである。
どちらも、真剣におっぱいを求めている男子が描かれた映画である。
「14の夜」だけの感想を書いた記事はこちら。
では本題、青春映画における「おっぱい」の重要性について、語っていくぞ。
男子の青春に、女の子への欲求はつきものである。
男子を主人公とする青春映画は、たいてい以下の要素を含んでいる。
あるいは、青春映画において、僕は以下の要素を期待している。
①恋(あるいは女性への欲求)
②友情
③家庭の問題
そして、これらの三要素に、「何者にもなれない自分」である主人公が立ち向かうのがセオリーだ。葛藤が生まれ、それを打破するときの爽快感、あるいは何もできないときの無力感が、青春映画の醍醐味だと思う。
青春映画におけるおっぱいは、①恋(あるいは女性への欲求)において、大きなバリューを発揮する。
あるいは目的を共有するという意味では②友情でもおっぱいはバリューを発揮するかもしれないが、①恋(あるいは女性への欲求)がおっぱいの主戦場だ。
ちなみに③家庭の問題において、おっぱいが活躍する場面はない。あるのかもしれないが、あってはならない。おっぱいで家庭の問題が生まれてしまうのはあまりにチープだし、おっぱいで家庭の問題が解決されてしまったら、それは解決ではなく崩壊を意味する。
閑話休題。
とにかく、中学生~高校生の男子の異性への憧れを描くうえで、おっぱいの描写は避けては通れない。おっぱいというか、直接的な表現をすると、「性欲」だ。
世の女性方には申し訳ないが、幼馴染への淡い恋だろうが、クラスのアイドルへの片思いだろうが、年上の先輩・お姉さんへの憧れだろうが、中高生男子の恋愛には、もれなく性欲がついて回る。なんなら、恋愛してなくても性欲がついて回る。
常に、エロいことしか考えていないのだ。我々男性はバカだ。中学生・高校生だったら、もっとバカだ。ヤリたくてしょうがない。常に性欲と隣り合わせだ。
中高生男子のリアルな生活や心の機微な変化を描くうえで、彼らが常日頃から抱え、悩んでいる「性欲」を表現するのは必要不可欠である。
もちろん表面上の恋愛感情だけをなぞるだけでも、十分美しく爽やかな青春映画は完成する。しかし、主人公の葛藤や現実での壁をリアルに、より視聴者に突き刺さるように描きたいのだとしたら、内にある本当の欲求に踏み込む必要があるだろう。
禍々しい欲求。あの子がほしい!あのことヤリたい!この熱い思いがあるからこそ、青春映画の主人公たちは、悩み、成長しようと努力する。ちゃんと性欲を描けるかどうかで、納得感が違ってくるのだ。
「性欲」を描くことの大切さについては以上である。もうこれで納得してもらえないなら仕方がない。
では、なぜおっぱいなのか?おっぱいである必要があるのか?それについて説明したい。
キレイな性欲の権化、おっぱい
こんな汚らしい文字の並びを、このデザインのブログで書くことなんて、間違えている。だが、僕は書くぞ。ギャップ萌えだ、これこそギャップ萌えである。
「性欲」というと、残念ながら我々は「汚らしい」とか「気恥ずかしい」いうイメージを持ってしまう。
ビジュアル的にも、実際に性行為を行っているシーンを見るのはなかなか恥ずかしいものだ。例えば家族でご飯を食べている時、そういうシーンが流れた気まずいでしょう?
では、考えてみてほしい。青春映画において、主人公たちが恋をする。あるいは性欲を抱えて、その解消を試みる。その時、例えば主人公が実際にハードに女の子とヤってしまったり、あるいは直接的に「ヤリたい」みたいな表現を使っていたりしたら、どうだろうか。
引いてしまう。悶々と童貞を抱える中高生達が、そんな直接的に性欲を表現したら、引いてしまうだろう。
登場人物に共感できないと、映画を楽しむのは厳しい。視聴者達の心を離さないように、主人公の性欲を表現するのは、実は難易度が高いと思われる。
コメディ的な要素を入れる、性欲ではなくキレイな恋愛だけを描く、などがよく見られる手法だが、まあそれだけではやはり前述した「禍々しい欲求」には踏み込めていない。
そこで、おっぱいである。
おっぱいは、性欲のどぎつさを緩和しつつ、男子中高生達の欲求をストレートに伝えるのに最適だ。
おっぱいを揉むという行為は、性的でありながらも、「性的」な枠の中では最もきつくない表現である。メディアでも「おっぱい」という表現はよく聞くし、ギリギリギャグ認定されるレベルの性的表現だろう。
「おっぱいもみてえええ!!!」という男子の心の叫びは、彼らの正真正銘の性欲を吐き出した言葉であるが、見ている側としては微笑ましくもあり、なんとなく応援さえしたくなってくる・・・そんな気分にならないだろうか。
つまり、性欲を極限までマイルドにし、我々視聴者への性欲への理解を促すのが、おっぱいなのだ。
青春映画におけるおっぱいの貢献は大きい。おっぱいのおかげで、男子中高生の真の心の悩みが、多くの人に伝わっている。この記事で書きたかったのは、これだけである。
今回のオチ
久々に書いた記事が、深夜の勢いでおっぱいについて語った文章でびっくりしている。
実は、今日2回「おっぱい」な映画を見て、どうしようもなくおっぱいに魅せられてしまった自分がいた。歌舞伎町に足を運びかけた。
だが、どういうわけだが傷物語の阿良々木くんが、14の夜のタカシが、頭にこびりついて離れない。彼らの葛藤が私の邪念を吹き飛ばしてくれた。
青春映画は良い。心が洗われるようである。彼らの葛藤の表現を支えたおっぱいに幸あれ。