見逃した昔の映画を映画館で観たいなら3選
映画を見ることが好きだが、パソコンやテレビで見るよりはやはり映画館で見たほうが作品に没入できる。外界の刺激をすべてそぎ落とし、映画と私だけの世界を作り出してくれる映画館が好きだ。
しかし最近は忙しくなってしまい、公開中の映画を全て拾い上げるのは難しくなってきた。「気になっていたけれど、上映が終わってしまった」なんてこともしばしば。
だから、私は定期的に、昔公開していた映画を上映している映画館のスケジュールを確認するようにしている。「あれ、映画館で見たかったなー」という作品があったら、見に行くという算段だ。
というわけで、私が利用したことのある「昔の映画を公開している映画館」を紹介する。
キネカ大森
「見逃した映画」系シネマとしては最強のラインナップを取りそろえる優秀な映画館。
<名画座2本立て>というシリーズで、既にDVDレンタル店に並んでいるような作品を1週限定で2本公開。ちなみに翌週には別の2作品が1週間公開されるので、毎週のように別の作品を楽しむことが出来る。
普通に公開している作品も、「既に劇場公開は終わりつつあるけれど、DVDレンタル店には並んでいない」といった作品が多い。例えば「三度目の殺人」や「ダンケルク」が11月4日~公開される、といったように(前者は3週間、後者は2週間公開なので期間は少々短めだが)。
ちなみに、<名画座2本立て>の方はいつでも一般1300円で見れるし、普通の映画を見る分にも、メンバーズカードを持っていればいつでも1300円で見れる(キネカ大森はテアトルシネマグループです)。
テアトルシネマグループのカードは以下の参照。
なお、私は存在を知らなかったが、名画座キネカードと呼ばれる会員サービスもあるらしい。3000円で購入し、3回名画座を見れるとのこと。しかも3回見終えた後は、6か月間の間ならばいつでも1000円で見れるようになり、さらに5回見るごとに1回鑑賞が無料になる。とてもお得だ。
小さい映画館ではありがちなことだが、席のオンライン予約が出来ないので注意が必要だ。実は行ったのがかなり前だったので記憶は定かではないが、確か席も指定ではなく入場した人から順に好きな席に座っていく形式だったと思う。
目黒シネマ
こちらは前述したキネカ大森でいうところの<名画座2本立て>のみを常に上映しているスタイルの映画館。
常に2本の映画が公開しており、1週間ごとに上演作品が変更していくスタイル。
一般1500円。ウェブでチケットを出力して持っていけば、1400円。
ちなみにウェブサイトで明言されているが、1回1400円で入場したら2作品を同じ劇場で見ることが可能(2本を交互に上映しているため)。実質1本700円で見れるということだろう。ちなみに、僕は2本続けてみたことはまだない。
こちらも席はチケットを購入した方から順番に並んで、入場していく方式。ウェブ予約などはない。
チケットの券売機がラーメン屋でおなじみのチケット券売機なのがちょっとツボ。待合室に本が並んでいたりと雰囲気は最高である。
TOHOシネマズ新宿
最後にメジャーどころをあげておく。
最新映画をばかすか深夜まで公開している優秀な映画館ではあるが、実はこっそり遥か昔に公開していた名画も上映してるのだ。
朝の10時~ 一日に1回だけ上映。今は野良犬という作品が公開されている。
調べてみたら、1949年の映画だった。
過去には「ローマの休日」が公開されていてびっくりした。
ピンポイントの上映なのでなかなか行けないが、最新の設備が揃った強靭な映画館で名作を楽しみたい方はチェックして見るといいかもしれない。
ちなみに、料金は一般1100円。安く設定されているので、お得だ。
以上、昔の映画を見たいなら3選でした。
見つけたら順次更新していくよ。
【オトメの帝国】百合はファンタジーである。
オトメの帝国【期間限定無料】 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
- 作者: 岸虎次郎
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2017/10/20
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
面白いweb漫画を見つけてしまった。
「オトメの帝国」という岸虎次郎氏の作品。
最近「ジャンプ+」で1話から75話ぐらいまで一気に公開されていて、日々の楽しみにしている。既にコミックスは12巻まで発売されていて、グランドジャンプのHPの方では最新162話まで公開されている。
どんな作品かというと、グランドジャンプのHPから引っ張ってくるとこんな感じだ。
かわいくって好奇心旺盛。やかましいけれど憎めない。欲望に忠実なイマドキ女子高生の不思議な生態を、ちょっと覗き見してみます?新たな時代の先端をいく'10年代ティーンたちの、波乱に満ちた日々を描くセキララ百合コメディ!!
で、せっかく無料公開されているので、1話をまず読んでほしい。
リンクを踏まない皆様に、さらにわかりやすく内容を説明すると。
◇とある女子高を舞台として、そこに通う女の子達の物語である。
◇男性はほぼ出ない。「オトメの帝国」なだけあって、女子高生だらけである。
◇5Pぐらいのショートストーリーをいくつも積み重ねていく作品である。
◇登場キャラクターは非常に多い。多種多様な女子高生の生活を楽しむことが出来る。
しかしキャラクターは使い捨てではないので、大きなストーリーの流れは存在する。
◇ジャンプ+で読むと登場人物の把握に時間がかかるが、どうやらコミックスには目次に登場人物表が描かれているようなので、非常にわかりやすい。
こういった感じである。まぁ説明を読むよりも、漫画を読んだ方が早いので(無料だ)、ぜひ読んでほしいのだが、そんなことを言ったらブログで取り上げる意味などなくなってしまうのである。
というわけで、何がそんなに面白いのかポイントを3つに絞って説明したい。
絵柄が妙にリアル
まずはここである。女の子が百合百合する作品は世の中には溢れかえっているが、大体それらの作品はまんがタイムきらら系の絵柄であり、極端なデフォルメが施されているものが多い。
いや、実際多いかどうかは分からないが、少なくとも僕が目にしてきた百合作品・女性だけが登場して彼らの生活を描く作品は非常に記号的なキャラクターが登場しているパターンが多かった。
しかし!漫画を読んでもらうと分かるが、「オトメの帝国」は絵柄が基本リアル路線である。流石青年向けコミックス、必要以上に目が大きかったり、人間とは思えない等身をしていることもない。
画力が高い上に、そして時々出てくるデフォルメされた絵も可愛らしい。
なので、まるで「本当の女子高生の生活」を読んでいるような感じで、没入感がある。
(ちょっと変態っぽくなってきたが、もうこの漫画を勧めている時点でその辺は覚悟している)
「はいはいフィクションフィクション」という前提をまずはぶっ壊してくれるのだ。あのリアリティのある絵柄が。
後述するが、この絶妙なリアルさというのがまずは大切なのである。
百合はファンタジーであるが、初めから「ファンタジーっしょ?」と斜に構えてみてしまうか、没入できるかでその価値は大きく変わってくるのだ。
ありそうな女子高生の生態と、あり得なさそうな百合感のバランスが良い
「セキララ百合コメディ」と記してあるぐらいなので、女の子の恋愛を描きながら、コメディ漫画であるのだが、それだけだと「はっはーフィクションだぜー」で終わってしまう。
しかし、「オトメの帝国」の素晴らしいところは、女子高生が「それっぽい」のだ。だから、彼女らがふざけている様子も「あぁこういうのが女子高ではあり得るんだ」と思えるし、一見なさそうな女の子同士の恋愛についても「あぁ!こういうのが女子高ではあり得るんだ!!!」と感嘆することが出来る。
その「それっぽさ」をどうやって演出しているのかの説明は難しいが、「登場人物が何を考えているのか」をかなり丁寧に描写しているのは、その「それっぽさ」に関連している部分だと思う。リアルにいる人間らしい悩みや思考の過程を描いているから、まず登場人物が記号化しておらず、本物の人っぽい。だからその人をベースとした、一見あり得なさそうなやり取りも、本物のように見える。
絵柄も相まって、ちゃんと女子高生がこの世に居そうなのである。そんな彼女らが思いっきり百合したりコメディしたりしてくれている。つまらないわけがないのだ。
百合である
結局のところここに落ち着く。
この作品には、ありとあらゆる形の百合カップルが次々と登場していく。ガチ恋愛をしているカップルもいれば、ぎこちない友情を築いていく陰キャと陽キャもいるし、子どもっぽい仲良しを楽しむ双子のような二人組もいる。
そのバリエーションが楽しいというのもあるのだが、やはり女の子同士のガチ恋愛を見ているのが一番楽しい。至福である。
なぜか。
男性である僕が、女の子と女の子の恋愛を傍目から見ているのは、「傷のない幸せなだけの恋愛の世界」を眺めているのに等しい。
世の中には恋愛を描いている作品が五万と存在しているが、それらの多くは男性と女性の作品である。そしてそれらを見るときに、僕は必ず感情移入をしてしまう。そして、リアルの恋愛と比較対照してしまうのだ。
過去の自分の恋愛を重ね合わせるとか。
壁ドンとかふつうやんねーだろwwwとか。
要は、フィクションで描かれる男女の恋愛には没入出来ないのだ。必ず、この現実の世界に持ち帰り、比較対照をしてしまう。その行為がどんなに虚しいものか。
美しい恋愛に完璧に入り込むには、僕が生きる現実との比較が出来ない高次元な恋愛を見せてもらうしかない。
そこで、百合である。
可愛らしい女の子と、可愛らしい女の子が、僕と一切関係のないところで幸せな恋愛をしている。そして、「本当にこんなことあるの?」と検討する余地もない。なぜなら、私は男性だし、当然ながら女子高出身でもないので、その文化を知る余地もないのだ。
だからこそ、浸れる。彼女らの恋愛を、この現実の一切合切を投げ捨て、信じることができるのだ。
前述したとおり「オトメの帝国」は「明らかにフィクションでしょ?」と「ちょっとリアルっぽいなこれ」が絶妙に織り交ぜられているので、より没入出来るのだ。
あからさまなフィクション感が出ている百合だと、「へーいやでもそんなことないっしょ」で終わってしまうので、このフィクションとリアルの絶妙な配合は重要である。
朝から凄い尖った記事を書いてしまったが、僕が言いたいのはこういうことだ。
リアルでは考えられない高次元恋愛こそが、我々に真の没入感を味合わせてくれる恋愛作品である。
百合に限らず、僕は読んだことはないがBL作品や、あるいは現代社会では比較検討しにくい歴史物や未来での恋愛の形もその高次元恋愛に含まれるかもしれない。
むしろ24年間生きてきて僕自身が女性同士の恋愛を目の当たりにしたことがないから百合が高次元恋愛に見えるだけであって、どちらかというと今後生きていても一切リアルで触れることが出来ない歴史もの未来ものの方が高次元恋愛としての役割を担えるのかもしれないな。
趣向は全く異なるが、人工知能と恋愛する「her」はなかなかリアルと切り離し純粋な恋愛作品として楽しむことが出来た。
まぁ、こんな感じで比較的メジャーな映画で前半の濃い内容を中和させ、この記事は〆とする。
久しく漫画を定期的に読むことから離れていたのに、ジャンプ+を読み始めてからむさぼるように漫画を読んでいる。無料で読めてしまうとやはり食いついてしまうな。
あわせてこちらもどうぞ。そろそろ60話に到達しちゃうから、ジャンプ+での集中連載は終わっちゃうけどね、食戟のソーマ。
【奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール】男の野望実現の裏にはいつも良い女がいる(感想:ネタバレあり)
タイトル長すぎるぜ。
『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』予告編
大分前に見てきて、既に劇場での公開が終わりそうなのだけれど、軽く感想を書いておく。見ていない人には向かない投稿かもしれない。雑記に近しい。読み流してくれ。
メラメラしていない「なんとなくこんな感じいいよね~」的な男の野望・・・というよりも願望なのだろうか、そんなものを主人公から感じ取れて不覚にも共感してしまった。
あらすじ
TOHOシネマズの作品紹介から転載。
奥田民生を崇拝する35歳、コーロキ。おしゃれライフスタイル雑誌編集部に異動になったコーロキは、慣れない高度な会話に四苦八苦しながらも次第におしゃれピープルに馴染み奥田民生みたいな編集者になると決意する!そんな時、仕事で出会ったファッションプレスの美女天海あかりにひとめぼれ。その出会いがコーロキにとって地獄の始まりとなるのだった…。あかりに釣り合う男になろうと仕事に力を入れ、嫌われないようにデートにも必死になるが常に空回り。あかりの自由奔放な言動にいつも振り回され、いつしか身も心もズタボロに…。コーロキはいつになったら奥田民生みたいな「力まないカッコいい大人」になれるのか!?
奥田民生のような飄々と自分のやりたいことをやるような大人に憧れる35歳の主人公と、小悪魔的な女性のヒロインの恋愛を描いた作品。
と思いきや、結構その内容は恋愛ばかりに振れていない。
編集者として働く主人公コーロキが、あかりをトリガーとして、仕事に奮闘していく様を描いたドラマだと僕は解釈している。
もちろん恋愛な映画なのだが、男の仕事・生き方を描いている側面の方が強いという印象だった。
だいたいの流れ(以下露骨なネタバレ)
公式の人物相関図を見ながら読んでほしい。
話は超ざっくり書くと、以下の通りだ。
コーロキは劇中であかりと付き合うことになるのだが、あかりの前の男はコーロキの職場の先輩である吉住。そしてさらに、コーロキと交際中も、コーロキの上司である編集長とも、あかりは関係を持っていた。
要するに、あかりは脅威の3股をかけていたわけだ。
で、タイトル通り、綺麗にコーロキ以外の男2名はあかりに狂わされる。
吉住はコーロキにあかりを寝取られて、一時休職。クライマックスシーンで編集長に顔面を切り裂かれ、その後行方不明となる。
編集長は作品のクライマックスシーンで吉住の顔面を刃物で傷つけ、挙句の果てにはあかりに切りかかろうとし、結果的に逮捕された。
コーロキは編集長が逮捕される事件があってから、自らの名前を偽り、プロデューサー?編集者?とにかくコンテンツエンタメ系の名高い人として大成する。余談だが、作中でコーロキが深く仕事上で関わる変人天才コラムニスト(安藤サクラが演じている)が登場するのだが、後日談では彼女と交際しているのがなんとも生々しくて面白い。
狂わせるガールは男性にとって悪女なのか。
とまぁこれだけ見るとあかりはとんでもない悪女に見えるのだが、そういうわけでもないのが面白い。コーロキが大成したのは、あかりがいたからと言っても過言ではない。
出会う男すべて狂わせるガールであることには変わりないのだけれど、「人生が狂う」というのは必ずしも悪い方向に向かうことだけを指しているのではない。
コーロキはあかりに見事に狂わされ、「奥田民生になりたいボーイ」から、「奥田民生らしくなれたとは本人は思っていないけれど、第三者からみたら奥田民生的なカッコよさを持ち合わせた大人」になることが出来た、というわけ。
「なんであかりのおかげでコーロキが大成した?」というのを説明しなければいけないと思うのだけれど、コーロキが仕事に熱心に打ち込む環境作りは全てあかりが行っていたからだ。詳しいことは作品を見てほしいのだけれど、コーロキが必死に頑張るタイミングはほぼあかりとあかりと尊敬できる職場の上司である編集長(オチだけ見るとただのストーカー変態野郎だが、仕事はよく出来る男という描かれ方をしていた)とのやり取りの直後だ。
で、その編集長を掌でコロコロしていたのもあかりなので、結局のところコーロキが仕事に全力で打ち込める環境を作り上げたのはすべてあかりであったように感じる。それが作為的かどうかはおいといて。
編集長に襲われかけた事件が起きてから、あかりはコーロキの前どころか俗世から姿を消してしまったが、コーロキに仕事に対する心構えだとか、ある種の諦め(あれだけ熱を入れてた女性が3股していた上に職場を破綻させたのだから肝も据わる)を教えてあかりは消えていった。結果、客観的に見て力まない、自分が好きなことをやっているような奥田民生的な大人にコーロキは生まれ変わったのだ。
「狂わせガール」の本領は、恋愛を通じた深いはりきりとその果ての絶望によって、男を大人にさせるところにある。この映画を見て、僕はそんなことを感じた。そして、そんな経験が僕にもあったので、深く共感してしまったのだ。
なぜ、コーロキだけ良い方向に転んだか
で、もう少し踏み込んで考えてみた。
何でコーロキだけ上手く転んで、吉住と編集長は悪い方向に狂わされてしまったのか。
吉住はともかく、編集長は決して仕事上無能な人間ではなかったはずだ。コーロキが尊敬できる程度には仕事が出来たし。コーロキの仕事への心構えを変えられる程度には、ちゃんと上司を演じていた。
まーこっから先はただの僕の妄想の垂れ流しなのだけれど、「奥田民生になりたい」がやはり吉住と編集長との違いだったような気がする。
自分がなりたい姿が常にコーロキの頭の中心にあった。だからあかりとの京都旅行よりも雑誌の原稿を優先できたし、あかりが自らの手から零れ落ちても精神の崩壊に至らなかった。
一方で、吉住と編集長は結局あかりが中心になってしまった。だから、あかりの消失と共に、自らも破綻してしまった。
編集長が昔の女についてコーロキに語っていて、「その女を見返すために仕事がんばろーって思った」みたいなことを言っているシーンがあったんだけど、「それって結局のところその昔の女忘れられていないよね、女に必死かよ」って僕は思ってしまった。
ラストシーンであかりが編集長が語っていた昔の女の話と全く同じシチュエーションでコーロキの前に現れるんだけど、当然あかりはコーロキのこと一瞥もしないし、コーロキも何一つ感情が読み取れない表情をしていたような気がする。
奥田民生の曲を聴きながら、奥田民生になりたいボーイだった過去に思いをはせしんみりするシーンで、過去との決別を果たしていたのだろう。終わったことだよね、と過去を切り捨てられる強さが、エピローグのコーロキにはあった。
女性のことばっかり考えているとダメだぞ!ちゃんと自分の人生歩めよ!と言われているようで、失恋して死にそうになっていた過去の僕に見せてやりたい気分になった。というかそういう過去があったがゆえに、そんな風にこの映画を解釈してしまった。
実はこの映画、友達と見に行ったのだけれど、誰一人こんな見方をしている人はいなかった。非常に残念。歩んできた人生によって作品の捉え方って違くなるんだね。
まとめ
妄想の垂れ流しが大部分を占めてしまったが、とりあえずまとめ
・女に狂わされる男を描いたコメディ的なノリ・・・を想像していたら、思ったより深い仕事論な映画であった。
・優等生的脚本。ところどころの伏線を綺麗に綺麗に回収していく。
・リリーフランキーはちょい役。
映画では間に合わないかもしれないので、気になった人はDVDで見てみてほしい。
それでは。
「食戟のソーマ」が面白いので、ネタバレなしでざっくりオススメする。
アニメ3期がやることを記念し、
少年ジャンプ+ってアプリで、「食戟のソーマ」の序盤を読めるとのことなので、早速読んでみた。
修学旅行が終わった辺りまで(30話ぐらい?)しか読んでないんだけど、これは面白い。「ジャンプを卒業した大人が楽しめる、ジャンプらしい感覚の漫画」って感じだ。
アニメが3期までやっており、26巻も刊行されているマンガについての感想を、30話程度しか読んでいない人間が語ったところで何一つ面白みはないのだが。久々に面白い漫画に当たってしまってテンションが上がったモノだから・・・。
これから読むかもしれない誰かに向けて、ストーリーのネタバレを一切せずにざっくり魅力を語っていくぞ。
あらすじ
ジャンプの公式サイトから転載。
実家が下町の定食屋を営む中学生・幸平創真。目標である料理人の父を越える為、創真は修業の毎日を送っていた。
しかし突然、父から料理学校への編入話を告げられ...!? 創造する新料理マンガ、ここに開演!!
全く伝わらんな。これ以上の情報を付加しては行けないとなると何も説明出来やしない。
現在どの程度物語が進んでいるのかわからんが、 遠月学園という料理学校(高校)に入学して、仲間たちと一緒に主人公の創真が料理の腕を磨く、といったのが大筋の話の流れだ。
「料理?最近流行りの美味しい食べ物が並んだ人情漫画的な?」
違う。しっかりと「食戟のソーマ」は「少年漫画」それも「ジャンプらしい少年漫画」なのである。
ちゃんと「努力・友情・勝利」である
ジャンプの三本柱といえば、「努力・友情・勝利」である(最近は「努力」の代わりに「才能」が台頭してきていると言われているが、あえてそこについては議論しない)。
ジャンプらしい気持ちの良い主人公が、ある一つの目標に向けて、友人と励まし合いながら、あるいはライバルと切磋琢磨しながら、日々成長していき、そして目標を妨げる敵と闘い気持ち良い勝利を収める。
そんな物語であれば、ジャンプ漫画としては100点だと思う。そういう漫画は大体面白い。そして、「食戟のソーマ」は少なくとも30話時点ではそういう漫画である。
そもそも、料理という題材でジャンプ漫画らしい熱さをどう演出するのか、ということについて説明しておく。
タイトルにある「食戟」というのがこの漫画の肝で、主人公が所属する料理学校「遠月学園」では「食戟」と呼ばれる、料理人同士のバトルの仕組みがある。
簡単に言うと、料理の鉄人的なもので、料理人同士があるテーマに沿って料理を作り、審査員にどちらが美味しいか投票してもらい、勝敗を決める仕組みである。まぁ他にも細かいルールがあるのだが、そこは本編を読んで確かめてほしい。
その食戟を通じて、努力や勝利といったジャンプ的な熱さを演出しているわけだ(30話時点だとまだ単純に学校の先生的な立場の人に認めてもらうための試験への挑戦も多いが)。
とはいっても単純に勝負し、勝利しているだけでは漫画は面白くならない。
食戟のソーマの面白いところは、主人公創真の料理のスタイルにある。
彼は元々定食屋出身なこともあり、さらに高校からの転入生ということもあり、金持ちだらけの遠月学園ではナメられがちな存在である。
しかし、そのような逆風をものともせず、所謂庶民の料理を得意としてきた創真が、学園の金に物を言わせる料理に慣れた人々を、身近な食材で彼の経験に基づいた工夫で唸らせていく。その様が、見ていてとても気持ちよい。創意工夫で格上に挑んでいく様は、努力の積み重ねからの勝利の気持ちよさに近しいものを感じた。
さらにジャンプらしさと言ったら「友情」なのだが、学園ものらしく主人公創真には多数の学友が存在する(当たり前か)。食戟など料理での勝負を通じてライバルや敵対していた人が友人になるドラゴンボール現象や、ヒロインのピンチを創真が助けるヒーロー展開もてんこ盛りだ。また、日々行われる試験や食戟において、友人とペアを組んで取り組むこともあり、分かりやすい協力関係が描かれている。
料理漫画ということもあり、各キャラクターには得意分野や食材が決められており、そのおかげでキャラクターも上手く立っている。30話時点ではまだあまり描かれていないが、創真が友人の得意分野から学び、さらに実力をつける、といった展開もいずれ訪れるであろう。
THEジャンプな気持ちの良い主人公だけでなく、彼の周りを囲む登場人物の魅力もポイントの一つだ。
上記したようなところが、ジャンプらしさだと思っている。気持ちいい勝利を収め、料理にひたむきであり、仲間思いである創真が最高にカッコいいのだ。
残念ながら、「ジャンプらしい漫画って言われても、そういうの飽きたよ」という人には「食戟のソーマ」は向いていないかもしれない。
しかし、それでももしかしたら「食戟のソーマ」なら楽しめるかもしれない。という話を次にしていきたい。
ナイス演出力
この漫画の大きな特徴は、美味しそうなご飯である。その描写力がすさまじい。
単純な「努力・友情・勝利」(もうファンタジーものやバトルものには感情移入できなくなってしまった)には感情移入しきれなくなった大人たち(主に私のことだが)の心
を、「美味しそうなご飯」という究極の題材が揺さぶるのだ。
そもそも作画担当の佐伯俊先生の絵がうまい。料理が本物のようである。余談だが、人物の描き分けもうまいし、女の子はエロいし可愛い。
さらに、この漫画の特徴でもあるのだが、料理を食べた人のリアクションにインパクトがある。だから、読み手もおいしく感じる。
だいたいテンプレ通りなのだが、食べた人は恍惚な表情を浮かべ、その料理の香りや舌触り、味を事細かに説明した後、「まるでXXXのようだ」と大ゴマでオチを付ける。そして多くの場合、可愛い女の子から、イケメン、おっさん、筋肉質な男まで全員が脱ぐ。脱いでエクスタシーに浸っている。あるいはそのシチュエーションに合わせたコスプレをしている。
これが面白い。ただの料理批評になってはつまらないところを、圧倒的な画力と比喩で料理を表現している。この演出がハマれば、この漫画はいつまでも面白いと思う。私は今のところ、飽きることなくこの過剰なまでのリアクションを楽しみに読み進めている。
ちなみに、この漫画には、監修を森崎友紀さん(有名な料理研究家らしい)が担当しており、「トリコ」のように空想上の素材や調理を行っているわけではないようだ。
実際に作ったら食べれることは個人的にはポイントが高い。3分クッキングを見て「おいしそうだなあ」と幸せになる感覚に近い。想像力が膨らむのだ。
以上、30話を読んだ時点での感想である。具体的な内容について一切記載しなかったもんだから、内容が薄くなってしまった。ぜひ、気になる人はジャンプ+で読めるから、DLしてみてほしい。
この先も食戟のソーマの魅力を見失わずに、30巻から40巻(長い漫画はあまり好きじゃないのだ)で完結してほしいものだ。30話以降は、TSUTAYAででも借りて読もうかな・・・。
【スイス・アーミー・マン】死体とのコント(感想:ネタバレあり)
見てきた。ちょっとわからないところがあったから、疑問提起の意味も込めて感想を書きたい。
あらすじとざっくりとした見た感想(まだネタバレなし)
簡単に言ってしまうと、「陰キャのハンクと、死体のメニーが、遭難状態から人里目指してアドベンチャーする話」だぞ。
よく分からないと思うから、公式サイトから引用してしまうぞ。
無人島で助けを求める孤独な青年ハンク(ポール・ダノ)。いくら待てども助けが来ず、絶望の淵で自ら命を絶とうとしたまさにその時、波打ち際に男の死体(ダニエル・ラドクリフ)が流れ着く。ハンクは、その死体からガスが出ており、浮力を持っていることに気付く。まさかと思ったが、その力は次第に強まり、死体が勢いよく沖へと動きだす。ハンクは意を決し、その死体にまたがるとジェットスキーのように発進!様々な便利機能を持つ死体の名前はメニー。苦境の中、死んだような人生を送ってきたハンクに対し、メニーは自分の記憶を失くし、生きる喜びを知らない。「生きること」に欠けた者同士、力を合わせることを約束する。
この文章だけ見ても、「メニー」がどんな死体なのかわからないと思うが、ポイントは以下2つだ。
①喋るし、ハンクと意思疎通が出来る。が、あらすじにある通り、記憶をなくしているし、人間としての「常識」が欠落している。
②メニーには超人的な能力があり、ハンクが人里に帰るのを助けてくれる。その能力は公式サイトを見てほしい(例を一つあげると、勃起した下半身が想い人を指すレーダーになっている、などだ)。
まぁ②の例で挙げている能力を見れば分かるが、この映画は基本的にはコメディ映画だと思ってくれていい。尻から噴出するガスで死体をジェットスキーのように乗りこなす主人公を想像してほしい。もうこれはコメディ以外の何物でもない。笑うしかないのだ。
しかし一方で、ただ笑かすだけでなく、かなり人間としての生き方の根本を見直させるようなハッとしたやり取りが繰り広げられる。自分の人生に自信を持てない人間であるハンクと、人としての常識が分からず人間が当たり前だと思っている事象について疑問を持ち、それについての意見をストレートに伝えるメニー。
彼ら2人のやり取りから、私たちの当たり前の生き方をひっくり返されるような気分になる。そんな映画であった。
なお、後述するが、この「深いやりとり」の多くは、人と人との関係の在り方、特に恋愛がらみである故、下ネタに発展している。「好き」という気持ちを最初は性欲と同じくくりで語ってしまうメニーが、徐々に変化していく過程もなかなか興味深いのだが、それは映画を見てからのお楽しみだ。
あらすじ(ネタバレ)
僕の疑問は物語のオチで生まれたので、最後まで内容を書かない分には語れないのだ。
というわけで、超ざっくりなネタバレを書くぞ。
①無人島に流れ着いたハンク(経緯は不明)。死体(メニー)が流れ着いているのを発見。メニーが発するガスで、無人島を脱出。しかし、波に煽られて、二人とも水没してしまう。
②ハンクが目を覚ますと、そこは海辺の浜だった。無人島を脱出できたことを喜ぶハンク。メニーを置いて人里を目指そうとするが、心惜しくてメニーと一緒に森を行くことに。
③洞窟で休んでいると、メニーが話し出した。話し相手が出来たことに喜ぶハンク。
④メニーにえっちぃ雑誌を見せ、「そういうこと」について話していると、メニーの下半身が反応。下半身が女性を向けてレーダーの様に反応していることに気付いたハンクは、それをもとに人里を目指す。
⑤ハンクがスマホのトップ画にしている女性(サラ)をメニーが目にし、メニーはサラに恋に落ちる。しかしスマホの充電にも限界があるので、彼女の写真を頻繁に見せるわけにはいかない。そこでハンクがメニーのイメージを膨らませるために、女装し、街中で彼女とメニーが出会ったり触れあうシーンを再現してみせる(バスや食事をするレストランをジャングルにある材料で作ってしまうのだから大したものだ)。テンションをあげたメニーを頼りに、さらにハンクは人里を目指す。
⑥ついにスマホが圏内に入った。メニーに人里が近いことを伝えに行くと、その場にクマが。メニーの力を使い追い払おうとするが、メニーがハンクのスマホに写っていた意中の女性と他の男が幸せそうに肩を組んでいる写真を見て、意気消沈してしまう。ハンクはクマに襲われるが、メニーがハンクとの友情に芽生え、無事クマを撃退。
ちなみに、サラはハンクがバスで見かけて一目ぼれした女性で、一切関わりもない事物。この事実がハンクの闇の深さを物語っている。
⑦負傷したハンクをメニーが引きずって、遂に人里へ。人里というか、サラの自宅の庭に出てしまった。傷だらけのハンクは保護されるが、一緒にいた死体のメニーは真っ黒な袋に入れられ搬送されそうになってしまう。ハンクはメニーを見捨てられずに、彼を連れて森に逃げ帰る。その後を追う、サラとその夫と娘、テレビレポーター、警察、ハンクの父親。その際、サラはハンクが自作したバスやレストランの舞台装置を目にする。
⑧海辺に出てきたハンク。ハンクに手錠をかける警察。ハンクはメニーに必死に話しかける。彼は返事をしなかったが、冒頭と同じように彼がガスを発し始める。海辺に打ち捨てられたメニーは、そのガスで海の果てに消えていった。
まぁ、結構端折ってるけど、こんな感じである。あらすじ書くって難しいな。wikiの編集者を尊敬するわ。
衝撃ポイントは、ハンクがサラの半ストーカーであったこと、そして人里に帰って来てからの展開である。序盤のハンクは、無人島から人里に帰ってこようと必死だったこと、そしてもっと奇妙なメニーという存在のおかげで異質な印象を受けなかったが、メニーに対する思い入れが大きくなればなるほど、彼の異質さが目立っていく。極めつけは、ラストの狂った彼の様子とそれを不気味そうに見守るギャラリーである。
ただのコメディでは終わらず、何やら不穏な心に傷跡を残すようなラストを綺麗に飾った「スイス・アーミー・マン」。私は劇場からの帰り道、何度も首を捻った。あのラストは、なんだったんだ。
ハンクは、遭難なんてしていなかったのではないか。
ハンクが人と馴染めていなく、半狂人化したのは話のオチでよく分かったが、これまでの物語の立て付けがどのようになっているのかが気になる。
僕は考えてみた。
①そもそも無人島に流れ着いたわけでもなく、人里から離れた地で遭難していたわけでもない説。
⇒序盤に無人島と思われる場所でメニーと出会い、ガスの力で抜け出したっぽい描写をしたのはミスリードで、そもそもサラが住む家の近くの森っぽいところの近くにある波辺で自殺しようとしただけ。その後人里を目指そうと森を進む描写があるが、あれもただサラの家の付近をうろうろしていただけ(サラが家の近くでハンクが作ったバスの舞台装置を目にしていたのはそのため)。
⇒そうなるとハンクの狂人っぷりが納得いく。しかし携帯電話が圏外だったのが解せない。まぁそれは単に電波が悪かった、で説明がつくのか。
②ではメニーは何だったのか。
⇒ハンクの幻想なのかと疑ったが、サラの娘がコミュニケーションを行っているうえに、オチでカメラマンが海をゆくメニーの姿を捉えているので、彼の存在及び特殊能力は実在したものと思われる。
散々考えて、これ以外の回答が見当たらなかったのだが、どうだろう。
だとしたらこの物語は非常に気持ちが悪い話だと思う。ハンクの気が狂っていることは確かで、人と関わるのが難しいから独りで無人島ごっこに興じていた。そこに喋る死体が現れ、彼の存在によって彼は人との関わりを取り戻す。その喋る死体は彼の幻覚ではなく、実在する「喋る死体」である。
なんだこの、ファンタジーとリアル路線の微妙な折衷は。この感覚に背筋がぞわぞわするような奇妙さがあったから、見た後すっきりしなかったのだろうか。
「普通に遭難していて、ようやく人里に辿り着いた」という話であったとストレートに受け止めるのもよいが、道中かなり序盤で作っていたバスの舞台装置が家のすぐ近くにあったのがおかしい。もしかしたら、あれは持ち運び式なのか?と思ったが、その過程が端折られているため、事実関係はわからない。
ちなみに珍しく、この映画は友達と見に行ったのだが、そのオチについてはよくわからなかったという返事であり、同時にどちらでもよいという感じの反応であった。まぁ確かにそうか。
総括
下ネタとダニエル・ラドクリフ演じるメニーの死体離れした機能、そしてちぐはぐなハンクとメニーの会話に笑いが絶えない映画であった。
一方で、人間の深い闇とそれでも人と関わる美しさをストレートに伝えてくる一面もある。そのバランスがとても面白い。メニーが何でも言葉にしてしまうので、頭が悪い私にも「人間関係とは・・・恋愛とは・・・」となんとなく考えさせてくれる感じはとてもよかった。良い意味で「低俗な哲学書」だと思って見れくれればよい。
【New Acoustic Camp 2017 / NICO Touches the Walls】すげー近くで見れたので感想。
参加してきた。久々のフェスである。
「New Acoustic Camp(=NAC)」とは、簡単に言うとキャンプをしながらフェスを楽しめるイベント。
僕はキャンプなど小学生以来一度もしたことがなかったし、フェス自体にもあまり参加しない(特定のアーティストのワンマンにばかリ足を運ぶ)。だからこそ、かなりレアな体験ができて楽しかったのだが、全体的な話はまたいずれすることとして。
この記事ではNICOもといACOのステージがどんなもんだったかについてのみ言及する。
なぜなら、僕はNICOが好きだからだ。
ステージについて
TIME TABLE | New Acoustic Camp 2017 | ニューアコ2017
yonderというステージで12:55から公演というスケジュール。
12:45~音出しのリハーサルのようなものをやっていたが、ちょっとだけ聞き逃してしまった。
なお、yonderというステージはこんな感じである。
↑久々の写真投稿。(一般の方々の顔をつぶすために、ペイントで編集をしているぞ。これがサムネになると思うとセンスのなさが残念だ)
12:30ぐらいに撮影したので、まだ待機している人は少ないが、結局僕もこの写真に写っている人々のすぐ後ろらへんで見られた。何度もNICOのライブには参加しているが、こんなに近くで見られたのは初めて。
NACは土日の2日構成で、群馬県で行われているのだが、初日の12:55にテントを張った状態でこの場に集まれる人が少なかったから、このような恵まれた環境でライブを見られたのだと思う。
僕らは、前日の深夜に出発し、早朝には現地についていたので、ある程度余裕を持って集合出来たわけだ。
ちなみに、雨は奇跡的に降っていなかった。台風、よく避けてくれた。
セトリとかメンバーの感じについて
今回も、NICOの4人+ 浅野尚志さんという構成。
皆赤いバンダナをお揃いでつけててキャンプっぽい服装だった。
↑前回見に行ったライブの記事。Fighting NICO以降、ずっと浅野さんがサポートメンバーとして入ってるのかもしれない。
ちなみに、「New 【Acoustic】 Camp 2017」なだけあって、アコースティック編成だった。ACO Touches the Wallsの復活である。
ちなみにセトリは記憶が正しければこんな感じ。
■リハーサル
エーキューライセンス
ブギウギルティ(instrumental)
上記2曲はリハの音出しなので、当然ながらフル演奏はしていない。
途中から参加したので、エーキューライセンスの前になんか演奏していた可能性はある。
■本番
手をたたけ
ニワカ雨ニモ負 ケズ
Broken Youth
ストラト
~ちょっと長めなMC~
THE BUNGY
マシ・マシ
天地ガエシ
本番は40~50分ぐらい。THE BUNGYの最後に全員でドラム周りで打楽器叩く演出があり、そのまま「マシ・マシ」に繋がる流れ。尺はTHE BUNGYが一番長かったかな。
MCでは「ACO」としてNACに初参戦出来たことが嬉しいと言っていた。「Acousticでありながらも、ロックなバンドを目指している」というMCからの、THE BUNGYの盛り上がりは流石。
雑感
全体的にノリやすい、手拍子がしやすい曲(特に「手をたたけ」と「マシ・マシ」は会場が大分乗っていた)を集めた印象。演奏した曲でスローテンポ気味だったのは、「Broken Youth」「ストラト」ぐらいだったかな。フェスってこともあるだろうけれど、彼らを知らない人も多いわけで、そういう人々がちゃんと乗りやすい演奏の仕方、選曲をしていたと思う。
特に「手をたたけ」は、原曲ベースだと手拍子のタイミングが初見ではかなり難しい。しかし今回はかなりアレンジを加えていて(イントロを聴いただけでは「手をたたけ」だと気付けなかった)、ただ同じリズムで手拍子をしているだけでのれる曲調になっていた。なんというか・・・抑揚が少なめでメロからサビも流れるような感じ?
・・・僕の文章力じゃ魅力が伝えられない。くそう。
「THE BUNGY」と「天地ガエシ」で古村さんがバンジョーを浅野さんがバイオリンを使っていて、カントリーチックになっていた。
「天地ガエシ」はFighting NICOで既に威力を見せつけられていたけれど、THE BUNGYについては原曲とかなりかけ離れたアレンジになっていて新鮮な気分で聴けた。ACOおなじみの全員でパーカッションパートもメンバー全員楽しそうで、見ていて幸せな気分になったぞ。
フェスでNICOのライブに参戦するのはおそらく初めてけど、キャンプフェスというある程度のハードルの高さのおかげで前の方で見れた上に、大自然に囲まれたステージという特別な環境でライブを聴けたプレミアム体験でした。
【ワンダーウーマン】戦局を一人で変えるバランスブレイカー(感想:ややネタバレ)
見てきた。ヒーローのクロスオーバーものはやっぱり燃えるということで、DCコミックの方も「マン・オブ・スティール」から順に見ている。
で、少々遅めだけれど、「ワンダーウーマン」も見てきましたよ、という話。
話の流れとグッと来たポイントを説明していくぞ。
そもそも・・・「ワンダーウーマン」って?
「DCエクステンデッド・ユニバース」(DCコミックヒーローのクロスオーバー企画)では既に「マン・オブ・スティール」、「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」、「スーサイド・スクワッド」が公開されており、これら3作の時系列は公開順となっていたが、「ワンダーウーマン」はこれら3作よりも時系列はかなり昔の話。
wikiのあらすじを読むと、どうやら第一次世界大戦中の話らしい。
「ワンダーウーマン」はダイアナの幼少期から、この世界を訪れ(元々女性だけが暮らす外界から閉ざされた島で暮らしていた)、戦争を終結させ、ヒーローになるまでの過程を描いた作品。「マン・オブ・スティール」から続く映画の流れの続編というよりは、登場人物を掘り下げるための番外編と考えてもいいかもしれない。
なので、11月に公開を控えている「ジャスティス・リーグ」は、「ワンダーウーマン」を見なくても雰囲気で楽しめるはずだ。「ワンダーウーマン」を見ていない人も安心してほしい。
あらすじ
例によってwikiがネタバレあらすじ、公式が一般的にあらすじと呼ばれているあらすじを担当しているので、公式の方のあらすじだけ記載しておく。
ネタバレ見たい人は以下のリンクからどうぞ。
①ダイアナ幼少期。彼女は女性だけが住む外界から閉ざされた島の王女。リトル・ダイアナは闘うことが大好き。戦闘の訓練をアンティオペおばさんにしてもらいすくすく成長。
②時は経ち、ダイアナは立派な女性に(ここから女優がガル・ガドットにチェンジ)。ある日、イケメン(名はクリス)が島の近海に飛行機ごと落下してくる。クリスを助けたのは良いが、ついでに敵が攻めてくる。クリスの助けもあって、どうにか撃退。
③クリスから外界で戦争が起きていることを知らされたダイアナ。そもそもダイアナ達の使命は「戦いの神アレス」が世界を滅ぼすのを防ぐこと(ごめん、ちょっとここ曖昧)。ダイアナは「きっとアレスの仕業よ!奴を叩くわ!そして外の戦争をとめてくる!」と奮起して、クリスと一緒に外の世界に旅立っていきました。
というのが公式に記載されている大体の流れ。
序盤にダイアナや彼女らの一族(アマゾン族)がどのような使命を持って生まれてきたのかの説明があるのだけれど、よく僕にはわからなかった。
とにかく分かったのは、
①人間ではない、超人(バットマン寄りではない)
→まぁこれは「バットマンVSスーパーマン」を見てれば明らかか。
②神々の闘いの末に生まれた種族。再び闘いが起きないようにするのが使命。
③闘いの元凶は「アレス」にある。
ということである。まぁこれだけざっくり分かっていれば、問題ないだろう。
ダイアナの正義感がどのように培われたのかがよく分かる映画
最近のヒーローものはすごいなーっと思っていて、とりあえず戦闘をやってかっこよく見せておけばよいという次元に留まらない。
ダイアナは「自らの信念を貫く」「自分が正義だと思ったことなら何でもやる」「犠牲を出すなんて許せない」といういわゆる小学校の女の子学級委員長的な幼稚な正義感の持ち主だったのだけれど、戦争のリアルに触れること、そして一人の兵士としてしか闘えないと分かっていても妥協しながら世界を正しく導こうとするクリスとの関わりの中で、「この世界」で本当に必要な正義感というのを身に着けていく。
人間に失望することもあったけれど、最後には「愛」に目覚めるという女性らしいヒーローの誕生の物語だ。
「バットマンVSスーパーマン」の時には既に大人の気品あるヒーローとなっていたダイアナではあったが、そのバランスの良い慈愛に満ちた正義感を身に着けるまでの過程が丁寧に描かれている。
戦争という人が次々と死んでいくリアルな環境で、教科書通りの正義感が通用しないっていうのは割と描かれるテーマだけれど、それを超人が主人公の映画でやると重みが違ってくる。
「ワンダーウーマンでもどうにもできないのか」的なね。
戦闘もなかなか良い(ここから少しネタバレ)
まぁこの映画ではだいたい3回ほど、ダイアナの戦闘を楽しめる。
①戦地にて、重火器を持った敵兵士に一人で突っ込んでいく無双的戦闘
②ドーピングでダイアナ程度の力を手に入れた敵とのタイマン
③アレスとの人間の域を超越した神々の闘い(イメージは「バットマンVSスーパーマンのドゥームズデイ戦に近い)
まぁ流石ヒーロー映画といったところで、ヒューマンドラマもしっかりやりながら、戦闘についてもパターンを複数用意していてぬかりない。
②タイマンはすぐに終わってしまい(敵が噛ませ犬)、③神々の闘いはアクションというよりはスケールの大きい映像技術の見せ場となっている(ドゥームズデイ戦よりもバットマンとスーパーマンの戦闘の方が見てて面白かったのと理屈は一緒だ)ので、①戦地での無双戦闘が一番の見どころかと思う。
状況としては硬直状態となっている戦場にダイアナが突っ込んでいき、その後に味方側の兵士が続き、戦局が変わるというもの。その後訪れた町の建物の屋内でも重火器を持っている兵士相手に無双を繰り広げる。
ダイアナの装備は剣とロープと盾。盾一枚でガトリング砲どころか大砲を弾き、近接したところをロープと剣でなぎ倒すという戦闘スタイル。大勢をものともしない無双感が、ダイアナの超人っぷりを演出している。
ところどころ映像をスローにして戦闘に臨場感を与えているところは上手い。しかし、人間離れしたアクション(人間にはあり得ない凄い跳躍をするとか)はちょっと違和感があるのでなんだか笑ってしまう。まぁそのギャップも楽しんでほしいところだ。
余談
エンドロール後の映像は特になかったので、ご自由にご退席を。
ところで、この記事を書くにあたって、今後の「DCエクステンデッド・ユニバース」の作品を確認してたんだけど、フラッシュとバットマンの単独映画って予定されてないんだな。特にバットマンはジョーカーとの決着をつけるべきだろ。
もう一回ハーレー・クインちゃんを劇場でみたいんだけどなあ。