【打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?】あのオチの意味を教えてほしい(感想:ネタバレなし)
流石に気になってたから見てきたぞ。
豪華キャストが集結したアニメ映画。僕が好きな人々が集結している。そりゃ見るしかないってことで、8月19日(土)TOHOシネマズ六本木で見てきました。
気になる記事もあったけれど、そりゃ完璧な作品なんてないさ。
結構楽しめた作品だったと思う。所謂オタク向けに受ける作品を世に送り出してきた新房監督が、一般受けする作品をありったけの資産(スタッフやキャスト)を使って作り上げたという新しい境地を見れたって感じかしら。
しかし、絶妙に「オタクには受けにくい」「オタク以外には受けにくい」要素が混在してしまっていたので、良いところを打ち消しあってしまったような印象はあった。
べた褒めはしないし、上記リンクのようにぼこぼこにするほどの作品ではないと思う。
ちなみに、僕がどんな人間かという話をしておくと。
◇岩井俊二原作の「打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか」は見ていない。
◇本作脚本の大根仁監督作品は結構好き。
◇本作総監督の新房昭之作品は、物語シリーズとまどマギしか見ていないけれど、馴染みはある。
◇本作の企画・プロデュースをした川村元気が携わっている作品が気になる。見る作品を選ぶ際の基準にはなっている。好きとか嫌いとかではない。
◇広瀬すずのマヨビームに悶絶。菅田将暉が出ていたらとりあえず見ておくか、っていうぐらい菅田将暉は好き。
◇米津玄師、結構好き。
つまりは、「打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか」のキャストは僕にとってのオールスター感謝祭みたいになっているわけです。好きバイアスがかかっていることをご了承ください。
語りたいことがたくさんあるけれど、主に以下4点について書いていこうかと。
◇声優
◇映像について
◇音楽
◇ストーリー(脚本)
では参りましょう。
※最後のストーリー(脚本)の部分はネタバレ多少あります。
あらすじ
公式の「ストーリー」↓を見ていただければだいたいわかるけれど。
簡単に説明すると、
親が再婚して引っ越しすることが決まっているヒロインなずなちゃんが、主人公典道と逃避行する話。
典道くんが「投げると時間が巻き戻る不思議な球」を入手し、何度も何度もなずなちゃんとの逃避行を成功させようと試みるというのが話の大筋。
最初の時空で逃避行失敗→「もしもあのとき・・・」で時間を戻す→もう一度チャレンジするが、逃避行失敗→「もしもあのとき・・・」で時間を戻す
を何度か繰り返す映画。ちなみに、主人公の典道の時間を戻す前の記憶は保持されたままで、それ以外の登場人物は当然その記憶はない。本人が覚えている系のタイムリープ作品。
こういう作品は「何度も成功させようと試行錯誤した結果どうなったか」が結構大事だと思うんだけど、「オチがどうだったか」ということについての意見は後述します。
個人的には不完全燃焼だったんだけど・・・まぁ余韻のある終わり方って捉え方もあるのかな。
声優について
主演の広瀬すずと菅田将暉、あとはなずなのお母さんを演じた松たか子以外は、「声優」を本業としている声優さん達をキャストとして登用。
脇を固める声優さんたちにはやはり安定感がある。あとは松たか子さんはエンドロールを見るまで声優さんがやっているのかと勘違いしていたぐらい、上手かった。流石エルサで一世を風靡しただけありますね。
問題は、上のほうで張り付けた記事でも批判の対象となってしまっていた、すずちゃんと菅田くんの演技について。
「話題作り」での起用なんだろうな、と思ってしまうようなキャスティングではあったけれど、演技力に問題があったかといったら、僕はそうでもないと思った。少なくとも、「声優が棒過ぎて物語が頭に入ってこない」レベルではない。
すずちゃんは「バケモノの子」でも声優をこなしていただけあって、ちょっと慣れている感じはあったし。
初挑戦の菅田君も間の抜けたよな声ばっかり出していたけれど、主人公のキャラクターを考えると、それもそれで味になっていたのではないだろうか。
というわけで、主演声優を理由に見るのをやめている皆、もったいないぞ。
※余談だが、光石先生の声を当てた櫻井さんがまんま忍野メメで笑ってしまった。セクハラ発言をあまりしないでほしい。
映像について
シャフト・新房監督のアニメ映画である。それ以上でもそれ以下でもない。彼のアニメーションが好きな人には刺さるし、そうでない人には刺さらないと思う。
新房監督の作品は物語シリーズとまどまぎシリーズしか見ていないのだけれど、似てるなあって思ったところが多数。顔のアップ(特に目のあたり)で人の心情を語らせるとか(物語シリーズでたくさん見た)、なずなちゃんがアイドルっぽくなって歌っているシーンのきらきら感とか(まどマギっぽかった)。
顔のアップする感じはちょっと人によっては気持ち悪いと思うだろうし、なずなちゃんの歌唱シーンはちょっと煌びやかで現実離れしすぎて、視聴者の気持ちが離れてしまいそうだなぁと心配になった。まぁ僕は慣れているから別に気にならなかったけどね。
水の描写と花火の描写には力を入れていましたね。あの風景美のようなものは、一般受けするんじゃないかなと思いました。
音楽、というか主題歌について
作品が終わった余韻に浸りながら聴く「打上花火」は最高だったぞ。
文句ないエンドロールだったと思う。
それだけ。それだけを言いたいがために、わざわざ「音楽について」という大見出しを作った。
ストーリー 脚本について(ネタバレあり)
大事なところだよね。
大根仁さん脚本ということで楽しみにしていたのだけれど、結構アニメーションにリアルなセリフを言わせている部分が気になった。
主役二人は中学一年生で、特に男子側は中一っぽい下ネタをガンガン言っているんだけど、妙にリアル過ぎてアニメーションでやってしまうと浮いてしまう。実写で中一が言っているならリアリティなのだが、アニメで言われてしまうとちょっと露骨過ぎる下ネタで引いてしまう。そういうシーンがいくつかあった。
リリーフランキーが言う下ネタなら笑って済ませられるんだけど、綺麗な背景を携えたアニメの男の子たちが露骨な下ネタ言っていると・・・、なんだかなあ、って感じ(これは個人的な感想なので気にしなくていいかもしれないけれど)。
ストーリーについては、ラストシーンでタイムリープした結果の「元とは違う世界」が崩壊して、元の世界だと思われるところに戻ってきたけれど、その元の世界でなずなと典道がどうなったのかが描かれていないのは消化不良だったかな。
僕の読解力不足かもしれないけれど、典道くんが先生に何度も呼ばれたのに、返事をしなかったところもよく分からない。「この世界は間違えている」という典道のセリフが劇中にあったのにも関わらず、元の世界で典道となずながどうなっているのかが描かれずに、「もしも」の世界での出来事を描いただけで映画が終わってしまうのは残念だった。
しかし、キャラクターの行動には矛盾がなく、感情移入がしやすい作品だったと思う。なずなと典道の距離が、典道の決断の積み重ねで段々近くなっていくのもラブストーリーとしては真っ当な感じで描かれていたし。
特によかったのは、典道と同じようになずなのことが好きだった祐介が、シチュエーションによって典道への態度を変えていたこと。自分が有利な時は典道の恋を応援して、かといって出し抜かれたらちょっとイライラして・・・というのがとても等身大の中学一年生って感じで好感が持てた。彼がこの映画を大いに盛り上げていたと言っても過言ではない。
総括
色々書いたが、キャラクターと映像美を楽しめる作品ではあったものの、オチが弱くて「あれ?ここで終わり?」といった印象を持ってしまった、っていう作品でした。これこそノベライズしてあのオチの意味は何だったのかを説明してほしいなぁ、最近流行ってるし出てこないかしら?
⇒調べてみたら、あった。読んでみるかな。
【怪盗グルーのミニオン大脱走】主役が食われている作品(感想:ネタバレなし)
少し前に見てきたのだけれど、感想を書いていなかった。「ミニオンが可愛いぜ!いえーい!!!」と書くしかないかなぁというわけで、記事にしていなかったわけだけれど。感想が書きやすい作品と書きにくい作品ってやっぱりあるわけさ。
しかしそれでも今更になって書く理由とは。すげーヒットしているらしいから、である。
映画のランキングみたいなものをあまり見る習慣がないのだけれど(映画に関するブログを書いている人間としてどうかと思うが)、たまたま目にしたら何やら本作ずっと1位らしいじゃないか。
↑スパイダーマンより上・・・?
売れているものはちゃんと記録に残しておきたい!というわけで、感想を書きます。
あらすじ(ネタバレあり)
本作は「怪盗グルー」シリーズの3作目である。「月泥棒」「ミニオン危機一髪」に続く作品。
「月泥棒」で父性に目覚め、家族を持ったグルー。
「危機一髪」で悪党から足を洗い、「反悪党同盟」の仲間入りをしたグルー。ついでにルーシーといい感じに。
そして本作「大脱走」では、グルーとルーシーは結婚しており、養子三姉妹と一緒に暮らしている。物語序盤で、グルーはバルタザール・ブラットと呼ばれる悪党の捕獲に失敗。その結果、「反悪党同盟」を解雇されてしまう。バルタザールは巨大なダイヤモンドを盗むことに成功。ダイヤの力を使ってハリウッドの破壊を目論む。
そんな時、グルーの双子の兄弟であるドルーから手紙が。グルーファミリーはドルーの屋敷に招待される。ドルーは悪党に憧れるものの才能がなく、悪党のカリスマであるグルーに悪党の手助けをしてほしいと依頼。グルーは悪党から足を洗った身だったが、バルタザールのダイヤを盗み「反悪党同盟」に返り咲こうと企み、ドルーに協力することにする。
無事ダイヤをバルタザールの基地から盗むことに成功したが、ルーシーに化けたバルタザールに娘3姉妹と一緒にダイヤを取り返されてしまう。娘とバルタザールを追ってグルー・ドル―・ルーシーはハリウッドへ。刑務所から脱走したミニオン達の活躍もあり、無事バルタザールを捕獲。グルーとルーシーは「反悪党同盟」に復帰、ドルーはグルー達と同居するが、相変わらず悪党を続けるつもりで、ミニオン達と悪事に出掛けて行ったところを、グルーとルーシーが追いかけようとするところでエンド。
珍しく公式HPにあらすじが見当たらないので、ざっくりと物語の大筋を書いてしまった。まぁミニオン達が可愛ければ皆見に来るからね、ストーリーなんて関係ないぜ!
肝心なミニオン達はどのような活躍をするのかというと、
①悪党に戻ろうとしないグルーへストライキ。2匹を残して全員出ていく。
②TV局への不法侵入で逮捕
③刑務所でグルーのもとに帰りたいと思い返し、脱出
④バルタザールが暴れているところに合流。
といった感じだ。正直彼らがいなくても物語は成立してしまうのだが、彼らは可愛いのでしょうがない。
テーマは家族の絆
グルーとドルーという双子の関係、そしてルーシーと三姉妹の関係が中心的に描かれている。
まず前者。元々グルーは兄弟がいないと思っていたため、自分に瓜二つな双子がいると知って大いに喜ぶ。グルーは悪党をやめ、ドルーは悪党を目指すという考え方の違いから衝突があったものの、最終的には一緒に暮らすほどの仲良しになったので、めでたしめでたしといったところだろうか。グルーは従来通り悪党を取り締まる側に、しかしドルーはやはり悪党を目指しておりミニオンと共に夜の街に繰り出す。こういった相反する関係でありながらも、家族としてともに暮らすことが許されているというのがほんわかポイントだった気がする。夢のある家族像である。
そして後者。ルーシーがグルー抜きで三姉妹と街に繰り出すシーンがあるのだけれど、彼女が母親らしくなろうと奮闘している姿が描かれている。長女のマーゴとプチ衝突がありながらも彼女と和解していく様や、三姉妹の一番下のアグネスには「ママ」と呼ばれ喜んでいるルーシーが微笑ましい。娘たちが崩壊するビルに取り残されたとき、それを助けに行ったのはルーシーだった。
「月泥棒」ではグルーが父親になり、「大脱走」ではルーシーが母親になる。ちょっと似たようなテーマだったのが残念だったが、ちゃんと楽しかった。
やはりミニオンが可愛い映画
色々と書いたものの、結局のところはこれである。ミニオンが好きならば楽しめ、ミニオンが別に好きでないならばこの映画は普通の映画なのだろう。
ミニオン語で一緒に歌おう♪映画『怪盗グルーのミニオン大脱走』本編映像(カラオケバージョン)
予告映像を見れば分かるけれど、ものすごくミニオンが推されている。ミニオンが檻の中でグルーとの思い出に浸っているシーンがあるが、そこはちょっとジーンときてしまった(予告の釣りのシーンとか)。あとはミニオンが歌っているシーン。やっぱり歌があると映える。
要は何が言いたいかと言うと、ミニオンが可愛い。
ぜひミニオンを見に行ってほしい。ということで今回のオチとします。
【スパイダーマン:ホームカミング】ベンおじさんは死なない(感想:ネタバレあり)
見てきた!すげー面白かった、過去の「マーベル・シネマティック・ユニバース」作品で上位3つをあげるなら「アントマン」「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーリミックス」「スパイダーマン:ホームカミング」だな間違いなく、ってぐらい好き。
話の流れやオチは説明しないけれど、ところどころネタバレ要素が含まれているので、注意しながら読んでください。
あらすじ
まあここを見てほしい。
映画『スパイダーマン:ホームカミング』 | オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ
あとは、wikiではご丁寧に一から十までネタバレがされている。
スパイダーマンは「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」で、アイアンマン陣営のスペシャルゲストとして初登場したわけだけれど、「ホームカミング」はその後の出来事。
よって、過去のスパイダーマンの映画(初代:アメイジング)のように、蜘蛛に噛まれて能力覚醒する経緯や、ベンおじさんが死亡してヒーローとしての意識が芽生えるシーンなどはない。
正直過去シリーズでその経緯は散々我々も見てきたので、省いたのは大正解だと思っている。「ホームカミング」では別の角度でヒーローとしての意識が芽生えるピーター・パーカーが描かれているので安心してほしいし、これまでのスパイダーマンシリーズとは一味違った出来となっている。
↑なお、予測変換で「死にすぎ」と言われているぐらいである。よく省いてくれた。
今回の悪役は、トニー・スタークに個人的な恨みを持つ・・・とあらすじで書かれている、「バルチャー」と呼ばれる男。「アベンジャーズ」「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」の戦火の残骸を不法に回収し、特殊な武器を開発、それを密売して儲けている組織のリーダーだ。廃品回収を正当に行っていたところ、トニースタークにその権利を剥奪された故に、恨みを持っているという設定ではあったが・・・作中でトニースタークに対してバルチャーが強い恨みを持っているという描写は少ない。
もはや宇宙規模の闘いに巻き込まれるのが当たり前となっている中、かなり今回の悪役は小物となっている。事実、バルチャーはチタウリやウルトロンが残した残骸を使った武器を密造していることをアベンジャーズに知られることを極端に恐れていたし、恨みを持っている割には真正面からアイアンマンに勝負を仕掛けようとは最後までしなかった(彼の所有物を盗もうとはしたが)。
しかしスパイダーマンとバルチャーの実力はほぼ拮抗しており(むしろバルチャーが上手である)、作中序盤のスパイダーマンがまだ遠くアベンジャーズの面々には及んでいないことがよく分かる。バルチャーには人間味もあったし、結構良い悪役として活躍していたのではないだろうか。
色濃くヒーローとしての葛藤が描かれている
「マーベル・シネマティック・ユニバース」作品の中でも「ホームカミング」が異質だった点は、ヒーローではないピーター・パーカーの私生活にかなり焦点を置いている点だ。
「ただの高校生としてのピーター・パーカー」と「スパイダーマンとしてのピーター・パーカー」両方をしっかりと描いている。ヒーローであることを前提にした他の「マーベル・シネマティック・ユニバース」作品の主人公とは違い、ヒーローになりたいけれどなれない高校生だからこそ、ヒーローではない一面の描写がしっかりなされていたって感じだろうか。
元より「マーベル・シネマティック・ユニバース」作品では「ヒーローの在り方」について主人公が葛藤する場面が必ずといっていいほど存在するが、「ホームカミング」ではその要素がより強く描かれていた気がする。
高校生としての生活を送るうえで大切なものをとるか、ヒーローとして大切なものをとるか。あるいは、アベンジャーズのような世界を救うヒーローになるか、今まで通り地元で大切なものを守るヒーローになるか。そういった彼の迷いを丁寧に描かれている。
特に、恋愛とヒーローどちらをとるかを彼に選択させたのはなかなか良いシナリオだと思った。意中の女の子の父親が悪役というシチュエーションにしてしまうのも素晴らしい。おぉ、と唸ってしまった。
まぁ結果的にピーターがどんな選択をしたのかは劇場で確認してほしい。「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」のことを考えると、まぁこういう選択が制作者的視点で考えても正しいだろうな、といったところだった。
ピーター・パーカーの高校生らしさがとても良い
マーベルのヒーローはおっさんである。可愛らしい青年が主人公であることはまずない。
しかし、今回遂に15歳のヒーローが爆誕。トムホランドがとてもいい演技をしていた、あどけなさが残る優しいヒーローを演じている。本作の序盤に彼視点での「シビルウォー」への参加経緯が描かれえているのだけれど、ずっとはしゃぎながらカメラ回している感じが可愛くてしょうがなかった。あぁ、高校生って感じ。
スパイダーマンは「スクールカーストの下層に位置する陰キャだけど、実はヒーローとして活躍しているんだぜ?」的な隠れた優越感なしでは語れないが、今作もその感じは健在。序盤うだつが上がらなかった嫌な奴の鼻を明かすスカッとするシーンもちゃんとある(残念ながらピーターパーカーとしての活躍ではなく、スパイダーマンとしての活躍ではあるが)。
また、しっかりと高校生らしく恋もしている。スパイダーマンのスーツに搭載されている人工知能に対して恋の相談をしているのがとても面白い。どちらかというと恋愛が成就するというよりは、ピーター自身の恋愛への恰好に焦点を当てているのも、高校生の恋愛っぽくて良かった。
またあの世界の高校生にとっての、アベンジャーズとはどのような存在なのかが小ネタ的に挟まれているのが面白い。教育用のビデオにキャプテンアメリカが出演していたり、ヒーローの中で誰がカッコいいかを女子が話し合っていたり・・・。
Team Thor - Official Marvel | HD
ソーのオフカットの映像もそうだが、こういうヒーローの日常や客観的な一般人の視点が入っているシーンは世界観を深めるうえでとても有用だと思うし、見ている側も面白い。小ネタ、万歳だぜ。
脇を固めるキャラクター達
ヒーローとしての指針であるアイアンマンことトニースターク、そして「椅子の男」ことネッド。彼らがとても良い味を出している。
まぁトニースタークがどんな役割を持つかは皆さんお察しの通りだと思う。その役割を存分に発揮できていた。期待通りだ。
今回声を大にして言いたいのが、ネッドの存在の価値である。彼もピーターと同じように陰キャではあったが、ピーターがスパイダーマンであることを唯一知る親友として物語でも大きな活躍を見せる。コンピューターに強いオタク属性を活かし、ところどころでピーターをサポートしていた。
ピーター=スパイダーマンであることを知っていて、彼のサポートに回る相棒が登場するのは、スパイダーマンシリーズとしては、「ホームカミング」が初めて・・・?だよね。
高校生といったら恋愛と友情だし、秘密を共有できる友人の存在は、ピーターパーカーの高校生らしさを演出するうえでとても役立っていると思う。一人で抱えているよりは、隙があって誰かに相談しながら物事を解決していく方が、高校生ヒーローっぽい。今までのマーベルヒーローとは違った、その「等身大の高校生」という感じが、スパイダーマンらしさ。「ホームカミング」1作でここまでキャラを確立させたという意味でも、本作は傑作なんじゃないだろうかと僕は思っている。
ちなみに恒例のエンドロール後の映像は
特に次回作への布石はない。例によって映像は2本。
1本目は、スパイダーマンの素顔を知っているバルチャーが、刑務所のなかでその正体について、他の囚人に問われるシーン。バルチャーはスパイダーマンに命を救われているので、結局その正体をばらさなかった。ピーターの善行がバルチャーの心を変えた瞬間である。
2本目は、キャップがビデオ撮影に臨んでいる場面。完全にネタ映像である。
スパイダーマンは帰ってくる。といつも通りエンドロール後に表示されたけれど、次回作は「インフィニティウォー」になるだろうし、おそらく彼の活躍の機会はあまりないような気がするから、ぜひとも単独主役作をもう1本作ってほしいところ。
→単独作品2作目は決定しているみたいですね。2019年公開らしい。アベンジャーズ3作目の後だね、いずれにしても。楽しみ。
【カーズ3:クロスロード】選手から師になること(感想:ネタバレあり)
大分前に見てきたけど、完成度がとても高くもはや言うことなしの傑作だったので、感想を書くことを放置していた。お盆で暇になったので書くぞ。一言でいうと、「脚本が美しすぎる」だった。
ディズニー長編アニメーションとは違って、ピクサー作品はトイ・ストーリーをはじめ、積極的に続編公開をしているのが特徴的。
確かウォルトディズニーアニメーションスタジオ制作の長編作品で続編があるのは「ビアンカの大冒険」と「アナと雪の女王(来年公開予定?スタジオがどこかはまだ明確になってない・・・?)」だけだったはず。
対してピクサーは「トイ・ストーリー」「ファインディングニモ」「Mrインクレディブル」そして「カーズ」と続編制作に積極的。
やはり作品の数を重ねるだけ、登場人物に味が出てくるのが続編モノの良いところだが、「カーズ3」は1作目「カーズ」を踏襲した良い作品だった(カーズ2はメーターが実質主役で、割と物語の本線から外れたアクションものだったので、3への布石にはなっていない)。
物語の流れを説明しないと何が良いのか説明できないから、今回はネタバレありで書いてく。
あらすじ(ネタバレ)
結構衝撃的な予告編だったよね。マックィーンがクラッシュしているの。
ディテールは説明しないけれど、大まかな話の流れはこんな感じ。
正確なあらすじはwikiを見てくれ。
①次世代のレーサーが台頭してきて、マックィーンが勝てなくなっていく。もはや過去のスターと成り下がっていた。
②そんなマックィーン新しいスポンサーが付き、勝つための先進的なトレーニングを行うことに。クルーズ・ラミレスちゃんがトレーナーとしてマックィーンに指導を行う。
③しかしマックィーンはラミレスちゃんの指導方針が気にくわない。指導を無視した結果、スポンサーのお偉いさんに「次回のレースで勝てなければもうレースには出さない」と約束させられる羽目に。マックィーンは独自のトレーニングを実行する。今まで触れてこなかった砂浜でのタイムアタックに付き合わされたラミレスちゃんは、上手く砂浜で走ることが出来ない。逆にマックィーンがラミレスちゃんを教える立場に。
④しかしタイムが伸びないマックィーンはレースに参戦して自らの実力を試そうとするが、事故で「マッドマックス感溢れる他の車をクラッシュさせて生き残ったら一台が勝利するレース」に参戦することになる(名前忘れた)。その際巻き込まれたラミレスちゃんが偶然にも優勝。しかしマックィーンがB級レースに出場していたことがマスコミにばれ、イラオコなマックィーンがラミレスちゃんと喧嘩。しかし、何だかんだで仲直り。ここでラミレスちゃんがマックィーンにあこがれ、レーサーになりたかったことが明らかになるが、これが後々に活きる重要な伏線となる。
⑤優勝するためにマックィーンは次の手を打つ。かつての師ドック・ハドソンの故郷を訪れ、ハドソンの師スモーキー指導を仰いだ。ラミレスちゃんも一緒にトレーニングに参加して協力。しかし最終的にマックィーンが期待するタイムを出すことは出来なかった。そのままレースに出ることに。
⑥レース本番。次世代のエース「ジャクソン・ストーム」にマックイーンはくらいついているが、勝てそうにない。マックイーンは応援に来ていたラミレスちゃんを代走させ、クルーチーフとして彼女のアドバイスをする側に。結果、マックイーンとラミレスちゃんは1位となる。
⑦マックイーンはその後現役レーサーを引退。ラミレスちゃんはレーサーとしてデビュー。マックイーンはラミレスちゃんのトレーナー兼クルーチーフとして他のチームで活躍する道を選んだ。ちなみにボディカラーがかつての師、ハドソンと同じ青色になっている。
まぁこんな感じだ。ところどころ割愛してるから、この脚本の美しさが伝わらないと思うのだけれど、結構「あーこう来ますか」という場面がたくさんある。
1.ラストのレースでマックイーンは初めてレース中にレーサーにアドバイスを送る立場となるが、ラミレスちゃんと一緒にトレーニングをしていた経験や、ラミレスちゃんがトレーナーとして指導している様子を見た経験が活きている。レーサーとしての復帰を目指していたはずのマックイーンが、いつの間にか師としての準備を着々と進めていた、というのが面白いポイント。
2.僕が書いたあらすじでは一切触れてないが(怠慢)、マックイーンがハドソンの故郷を訪れる場面で、ハドソンの伝説のレースの話が出てくる。壁際に車体を押しつけられる妨害をされたときに、宙がえりでその車体を交わし順位をひっくり返すという技が披露されたのだが、クライマックスのラミレスちゃんが出場するレースでも、その宙がえりの技でゴールを決める。演出が憎い。
まーディテールの説明は省くけれど、「このシーンがここに繋がるのね」がかなり多い。あ~!と唸りたくなる感じよ。そんな楽しみがある。
「カーズ」から続く師弟関係
シリーズ1作目「カーズ」では、天狗になったマックイーンをハドソンが導き、そして3作目「カーズ3」では自らの限界を悟ったマックイーンがラミレスちゃんを指導する側に回る。
「カーズ3」で常にマックイーンはハドソンを意識しており、スモーキーとの会話の中でハドソンが選手時代から指導する側になるまでの経緯と心の変化を知る。その結果、現役選手にこだわっていたマックイーンが、次の才能ある世代への指導を志すわけだ。師から運転の技術だけじゃなくて、生き方まで教わり、その背中を追う師弟関係の美しさがこの映画にある。本作一番の見せ場、クライマックスシーンを弟子であるラミレスちゃんに譲るのも、マックイーンが成熟した大人になった証拠のようにも見える。とにかく、このバトンが綺麗に繋がれていく感が良い。
クルマが主人公の良さ
物語の最後に、マックイーンがハドソンに倣い車体を青色にペイントして、新しい人生を歩み始めるが、キャラクターの決意のようなものが概観で一目でわかるのはクルマを主人公とした良さだと思う。
一応子どもでも楽しめるディズニー作品である以上、分かりやすさは必須。人では表せない方法で、視覚的に人の思いが伝えるのが上手いなあと感じた映画でもあった。
ちょっと内容は大人向けだけれど、そういう工夫やまぁあとはクルマが派手に動いているシーンが結構多いのもあって、子どももちゃんとついてこれる映画になっているのは、流石天下のピクサー作品だと感心。
ディズニーピクサー作品の中でも、結構上位につけるクオリティの作品に仕上がっているのではないか、というのが僕の感想。もう公開終わりそうだけどぜひ見てきてね。
【掟上今日子の裏表紙】両手で男をころころする今日子さん(感想:ちょっとネタバレ)
読んだ。
僕は忘却探偵ほどとは言わずとも、いーちゃんほどとは言わずとも、人並み以上に記憶力が弱い人間なので、シリーズものがどんどん連なっていくと段々過去作との繋がりを頭の中で再現するのが非常に困難になってくる。
哀しいかな、巻を重ねれば重ねるほど、そのシリーズへの理解度は落ちていく。
シリーズ9作目の作品の感想を無邪気にブログにアップするのは自殺行為だ。
それでも面白かったので、感想を書いていくぞ。よくまあ西尾維新さんは「睡眠で記憶が抹消する探偵」という設定勝ちではあるが、その設定に負けない物語を量産できる。
本作の見どころは、安楽椅子探偵な今日子さんとしっかりと探偵だった厄介である。そして、シリーズ9作目にしてようやく今日子さんと厄介の関係に一つの変化が起こるところ。
ちなみに本作は今日子さんの魅力が例によって爆発していることはともかく、推理小説としても見事なものだったので、解決編の内容、事件解決の経緯についてはネタバレ一切なしで感想を書くぞ。しかし、事件とは関係のない物語のオチについては、しっかりと記載してしまうので注意だ(前述の今日子さんと厄介の関係の変化、がまさしくそれにあたる)。
あらすじ
アマゾンの商品紹介に記載されているものについてはセーフ認識して、そのまま引用させていただく。
内容紹介
強盗殺人事件の容疑者として逮捕された忘却探偵・掟上今日子。
現場で血まみれの凶器を握りしめて眠っていたところを発見された彼女は、事件の記憶を忘れていた。
檻の中から事件の調査をしたいと申し出た今日子さんに対峙するのは、「冤罪製造器」の異名をもつ強面の警察官・日怠井。
警察官の矜持と葛藤しながら彼が選択したのは、「忘却探偵の専門家」隠館厄介に協力を仰ぐことで…?内容(「BOOK」データベースより)
「犯人は私ですね、間違いなく」事件現場は、ある屋敷の密室―遺体の隣で血まみれの凶器を握りしめて眠っているのを発見されたのはあろうことか、忘却探偵こと掟上今日子だった。しかし逮捕された彼女は、すでに事件の記憶を失っていて…?捜査にあたるは“冤罪製造機”の異名をとる強面警部・日怠井。忘却探偵の専門家として駆けつけた厄介は、今日子さんの無実を証明できるのか?逆転の推理劇、開幕!
記憶を失うことで、数多くのドラマを生み出してきた今日子さん。「旅行記」では「記憶違い」で怪盗になってしまっていたが、今回はなんと容疑者になっている。
忘却探偵シリーズ初期では徹底的な行動力で「最速」を体現していたが、今回は檻の中でそんな強みが発揮できない。
では今作の今日子さんは?数多くの男性あるいは刑事もしくはジャーナリストを虜にしてきた人心掌握力で、完璧な安楽椅子探偵を演じている。
彼女は動かない。しかし巧みな話術と駆け引きで、周囲を動かし、見事事件を解決する。シリーズ9作目にもなってマンネリにならないのは、こうやって事件解決へのアプローチのバリエーションが豊かだからだろう。
冤罪製造機と冤罪被害者のコンビ
今回安楽椅子探偵の今日子さんの足になるのは、冤罪製造機と呼ばれる日怠井警部と、お馴染み万年容疑者の厄介さん。
彼らを言葉巧みに今日子さんが誘導し、日怠井警部と厄介さんがそれぞれのアプローチで事件への解決の糸口を見つけ、クライマックスでそれらが合わさり事件が解決する、というのが本作の面白いところ。
日怠井警部は警部らしく、探偵の今日子さんに対して懐疑的。今日子さんは依頼というよりは、駆け引きで日怠井警部を動かしていく。
一方で今日子さんラブな厄介さんは、当然ながら今日子さんをよく知っていて、そして彼自身が心を開いている。今日子さんも厄介さんには、「自分をよく知っている」という前提のもと、彼に指示とは言い切れないヒントを提示していく(今日子さんと厄介が接触するときには日怠井警部が常にいるので、ストレートな指示は出せない)。
この絶妙なバランスが本作の面白いところで、普段の「ワトソン視点の厄介が、探偵今日子さんが謎を解決する様を解説する」という話の流れではなく、本作は「厄介あるいは日怠井警部が自ら探偵(まぁ日怠井警部は警察なのだけれど)となって、事件を解決していく」話となっている。ある意味傍観者であり、語り部である厄介が、本作においては探偵を、あるいは探偵である今日子さんの助手を担っているのだ。
何なら今作の解決編では、今日子さんは一切登場せず、謎の解説を全て厄介が担っている。彼がしっかりと推理を成し遂げ、解決編まで完遂したのは記憶が正しければ本作が初めてではないだろうか。
事件を通じた厄介と今日子さんの関係の変化(以下ネタバレ)
さて、今回心が躍ったのは、またしてもオチの部分である。本作で言う「付記」だ。
もちろん解決編もシリーズ屈指の面白さだった。血だらけの刃物を手にして寝ている今日子さん。「絶対に今日子さんは無罪だ」と我々は思って物語を読み進める。もちろん「無罪」なのだが、その「無罪」である理由は、意外なものだった。上手く物語の過程でオチが意外だと思わせるような刷り込みをしているのも上手。傑作だと思う。
さて閑話休題。今回のオチは、厄介が掟上探偵事務所に履歴書を出しに行く場面で終わる。
基本的に今日子さんには今日しかないので、彼女にとって誰かとの人間関係が変化していくことはないが、周りの人が彼女に対してどう思うか、どう接するかはその人の行動次第で帰ることが出来る。
そんな中、本作では今日子さんと、今日子さんの周囲の人々との関係性を語っている場面が多く存在した。例えば、日怠井警部と今日子さん、親切さん(久々にしっかりと物語に関わっていた)と今日子さん、あるいは依頼人と今日子さん。そういった人々との関係を厄介は見て、そして自ら今日子さんの足となり探偵助手として解決編を完遂したことで、今日子さんとの関係を変化させることを決意する。彼が助手になろうと決意した経緯も、物語を読むとかなり納得のいくものだったので(解決編に関わる部分なので詳しくは記載しないけれど)、ぜひとも楽しみにしてほしい。
9作目でようやくか、と私は感涙した。記念すべき次回作、10作目からは今日子さんには愉快なワトソンがついている。ある意味「掟上今日子の裏表紙」で第一部が完結したと言っても良いのかもしれない。これからは助手がいることで、今日子さんの事件へのアプローチは全く違ったものになってくるだろう。
以後、どんな物語が展開されるのか楽しみで仕方がない。
というわけで、ざっくりとした感想兼おすすめでした。
次回作が楽しみ!
【映画:君の膵臓をたべたい】思ったより原作に忠実(感想:ネタバレあり)
映画ってタイトルに書いておきながら小説版の感想という紛らわしい記事を過去に公開してしまったところ・・・
最近アクセスがめっちゃ伸びていて
なんかこれで映画見ないのもおかしな話だよなってことで、
ちゃんと映画を見てきた。8月1日、渋谷TOHOシネマズで21時ぐらいの回を。
タイトルにも書いたけれど、割と原作に忠実に映画化していて、原作好きな僕の満足度はなかなかに高かった。
主に原作との違いについてぶつくさ言いながら、感想を書きたい。
客層:若い子がたくさん
どんな人が見てるんだろう、って気になったから一応映画館に入って客層をチェックしておいた。
渋谷って街だからこそなのかもしれないけれど、やっぱり若者が多数。21時代の上映だったから、ほとんど大学生カップルもしくは女の子のグループだった。ごく少数私のような退社後のくたびれたサラリーマンもいた。お疲れ。
物語のクライマックスでは鼻をすする音がどこからか聞こえてきたし、なんだか隣で見ていた女の子も泣いていたようだった。若い子は感受性が豊かだ。後述するけれど、僕は泣きそうになったけれどどうにか堪えた達だ。
原作との違い(以下ネタバレ)
未来からの回想か、ほぼ現在進行形か。
映画版はヒロイン桜良が亡くなった12年後が描かれているという点が原作との一番の違いだろう。ヒロイン死亡映画にありがちな、「ヒロインの死を引きずっている主人公が、過去の回想を交えつつ、立ち直っていく様を描く」というテンプレに綺麗に乗っかっている。
現在→12年前→現在→12年前→現在→12年前→現在・・・
と今と過去がサンドイッチされている形だ。
ご存知の方がほとんどかと思うが、一方原作はほぼ現在進行形で【僕】と桜良との交流を描いている。時系列は確かこんな感じじゃなかったかな。
桜良の葬式当日 → 桜良との出会い~別れ → 葬式から数日後、共病文庫と遺書を読む → 後日談(【僕】と恭子が桜良のお墓参りに行く)
過去回想型だと一々話が途切れてまどろっこしい印象を持つことがあるが、この映画に限ってはそこら辺のバランス感覚はうまく取れていた。ぶつ切りになっていた印象はない。
遺書を見つけるタイミングが一番の違い
物語の構成が大分違っているが、しかし原作ファンの皆さんには安心してほしい。
映画版は、学生時代の【僕】と桜良のやり取りについては、ほぼ正確に再現している。つまり、物語の大半は原作に忠実に作られている。もちろんちょっとした改変はあったけれど、ストーリーラインはほぼ変わっていない。
※個人的には「爪の垢を煎じて飲む」という表現が一切出てこなかったのが気になった。この元ネタがあるから「君の膵臓をたべたい」が映えると思うのに。
【僕】と桜良との出会いから、友達になっていく過程。旅行にも行ったし、「いけないこと」もしかけるし、病院の夜の「真実か挑戦か」もしっかりやった。桜良は殺されてその生涯を閉じるし、葬式に行けなかった【僕】は共病文庫を読んで涙を流す。
ほぼ原作と一緒だ。しかし、もう「12年後」が描かれている時点で察しがついているかと思うが、桜良の【僕】への本当の気持ちが書かれている「遺書」を【僕】が読むタイミングだけが原作と映画で違っている。
原作では、遺書は共病文庫の最後のページに書いてあった。
一方映画版では、共病文庫には桜良の日記しか書いていない。なので、学生時代の【僕】が読んだのは、桜良の日記だけ。遺書は、桜良達が通っていた学校の図書館に隠されていた。なので、学生時代の【僕】は桜良の本当の気持ちを知らないまま、大人になる。
また、細かいようで重要な点は、原作では【僕】の「君の膵臓をたべたい」が桜良に伝わっていることをケータイのメールの受信ボックスから知ることが出来たが、映画版だと【僕】の「君の膵臓をたべたい」が桜良に伝わっているかどうかは明らかにされていない(そして最後までこの点について言及されることはなかった)。
あるきっかけがあり、ようやく遺書を見つけて、これから新しい人生を踏み出そうとするというのが映画版の「現在」におけるクライマックスシーンだ。
映画版には、【僕】が共病文庫の桜良の日記を読んで号泣するシーン(過去)と【僕】と恭子が桜良の遺書を読んで感動するシーン(現在)、2つのクライマックスを構えているというわけ。
映画版の「現在」について
映画版では、原作にはないエピソード【桜良が亡くなった12年後の話】が結構な尺をとって描かれている。
【僕】は学校の教師に(かつて【僕】と桜良が通っていた学校の教師になっていた)。
恭子はお花屋さんになり、結婚を控えている。彼女の婚約者は、原作にも出ていた【僕】にガムを渡していたあいつだ。原作の最後のシーンでも恋愛をほのめかす描写があったから、まぁ不自然なカップリングではない。
で、【僕】は先生であることにやりがいを感じていなかったが、図書館の整理をしているときに桜良の遺書を見つけ、しっかりと生きていく決意をするというオチ。
ちなみに、恭子に遺書を渡すタイミングは彼女の結婚式の当日。花嫁姿の恭子が、かつての友人の遺書を読んで泣き崩れるというシーンもなかなかの泣かせポイントである。【僕】が恭子に「友達になってください」というのもこのシーンだ。
映画版では桜良の死後【僕】と恭子が疎遠になったのがよく分かる。【僕】は結婚式の招待状を受け取っていたが結局返事を出さず、結婚式の当日に遺書を見つけて慌てて式場に駆け込むという何とも気まずい再会を果たしていた。
12年経って、ようやくいろんなものを取り戻した、といった感じのエンディングである。
感想
大分改変されていると思ってみたので、想像以上の原作再現を果たしていた映画版に僕は非常に満足している。
特に、原作では他人が【僕】の名前を呼ぶときには、【xxxx】(その人が自分のことをどう思っているのか、という【僕】の解釈が入る)と表現していたが、それを違和感なく映像化したのは素晴らしい手腕だと思う。
ガムを渡してくるあいつは、常に【僕】をしっかり名前(志賀)で呼んでいたし(原作でも彼が【僕】を呼ぶときは「【クラスメイト(正確には覚えてないけど)】ぁ」という書き方をされていて、【僕】を本当の名前で呼んでいるという確証が持てた人物だった。)、桜良には最後の遺書以外では一切本名を呼ばせなかったのもナイス演出だと思っている。
原作の雰囲気を損ねないという意味では完璧である。桜良ちゃん演じる浜辺美波さんもイメージぴったりだった。
しかし、原作と映画版の一番の相違点について言及させてもらうと、桜良の遺書を読むタイミングはやはり共病文庫と一緒の方が、つまり原作の方が、僕は好きだ。
そして、お互いに「君の膵臓をたべたい」と伝えあったという事実を認識しているかどうかでも、【僕】が泣いた意味合いは違ってくると思う。原作にはその点についてしっかりと言及がされている。ちゃんと気持ちが通じ合えていたということについての喜びも、あの涙には含まれていたのではないだろうか。色んな深読みが出来るという点も好ましい。
映画版だと12年もの間、【僕】は桜良の様に人と関わり合いながら生きていく貴重な時間を棒に振っているわけだし、恭子と友達になるという約束を果たすのも大人になってからでは何というか意味合いが違ってくる。なんというか手放しにハッピーエンドじゃないのだ。
【僕】が他者に興味がないと壁を作っていた「子ども」だったからこそ、桜良が遺書に書いた「君が羨ましい」という言葉が意味を持つんじゃないだろうか。ちゃんとお互いに尊敬しあえる存在でいられたことが意味を持つんじゃないだろうか。
おそらく彼女の言葉は大人になってからじゃあまり響かないんじゃないか、と24近くになった僕は思う。彼女の言葉なくとも、大人になってしまえばある程度聞き分けが出来てしまうし、周りとも卒なく関われてしまうから。
桜良の生きた意味が最大限に【僕】に伝わる形でエンディングを迎えたのが原作。
時期を逃してしまったが、12年を棒に振った大人の【僕】がようやく救われたビターエンドなのが映画版。
僕はそういう風にとらえている。どちらが良いか悪いかではなく、前者の方が僕は好き。というだけだけれど。
どっちの方が響く人が多いのかなあっていうのは気になるな。映画版の方が、感動のターゲットが広がるのかね(原作のストーリーだと学生しか感情移入できないのかな?)。
余談
「マリアンヌ」の公式HPにも「みんなの感想をシェア」みたいなコーナーがあってビビったんだけど、この映画にもちゃんとあったので興味深く拝見している。
皆しっかり泣いてるんだなあ。口コミをそのまま公式HPに貼っちゃうのはいい宣伝方法だよね。ある程度結末が読めているこの作品については特に。
まとまりのない感じで〆てしまいますが、以上「君の膵臓をたべたい」感想でした。
画期的だと思われるジッパーイヤホン、そしてタッチノイズとの闘い
僕は音楽を聴くのは好きなのだが、イヤホンの良し悪しはよく分からない。
だいたい1000円前後でカナル型イヤホンをさっと購入して、壊れたら買い替えるという適当なサイクルを繰り返している。極端に音質が悪かったり、音漏れが酷かったり、耳が痛くなるようなものはNGだが、安いイヤホンでも最低限の基準はクリアしているものが多い。
で、最近初めてジッパー型のイヤホンを購入したので、それについてちょっと書きたい。
ジッパーイヤホンとはこういうものだ。
ジッパー型 イヤホン ヘッドセット 通話マイク付き 絡みにくいイヤフォン 高音質 iPhone / Android 各種スマートフォン用 ねじれ 防止 (黒)
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※多少ネガティブな意見もこの後書くので一応注釈として記載しておくが、この商品自体を購入したわけではない。僕が買ったのは別のジッパー型イヤホンだ。
イヤホンのコードの部分がジッパーになっている、というなんだかカッコいい商品である。
イヤホン素人の僕は、この機能的っぽい感じに一目惚れし、あまり深いことは考えずに購入した。
「なんだか、変わってるし、友達とかに自慢できそう!」
非常に頭の悪い理由で購入を決定した。
しかし結果的には、ジッパーイヤホンを手放すことになってしまったので、その顛末を語りたい。
確かに、収納はスマート
早速ジッパーイヤホンが届いたその日から、音楽プレイヤーにぶっ刺して音楽を聴きながら街に繰り出した。
大抵通勤中の電車の中およびその乗り換え区間を歩きながら音楽を聴いて、それ以外の時はカバンに無造作に突っ込んでおくのだけれど、ジッパーイヤホンはその「出したりしまったり」をするときに強みを発揮する。
ジッパーイヤホンは、絡まらないのだ。
通常のコードのイヤホンは無造作にカバンに突っ込んでおくと十中八九絡まる。丁寧に音楽プレイヤーにぐるぐると巻いておいたと思ったら、なぜだか知らないけれど音楽プレイヤーが巻き付きから解放されていて、コードが文字通り”空回り”をしている。結果、絡まる。
ちょっと目を離すと、RのコードとLのコードがランデブーし、いちゃいちゃしてやがる!!
カバンからプレイヤーを取り出してから、絡まったイヤホンを解くのに時間がかかりすぎて街中で立ち止まるようなことも時々あるぐらいだ。そのタイムロスが嫌で仕方がなかった。
まぁ対策の方法は色々あるさ。
クリップみたいの買ったり。
Sinvitron 自動ケーブルワインダー 軽量 コンパクト・サイズ イヤホン/USBケーブル/スマホケーブル 等を迅速に巻き取る可能 (ホワイト)
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巻き取るやつ買ったり。
でもお金かかるし、こういうこまごまとしたアイテムは結局なくすんだよ。
だから、絡まったコードの対策は諦めていたわけさ。
そんな時、登場したのがジッパーイヤホンである。
イヤホンが絡まりやすい理由は、1本のコードではなく、途中からコードが二股に別れてしまうことにある。
しかし、ジッパーイヤホンならば、その二股に別れて然るべきイヤホンのコードをジッパーによって1本に手軽にまとめられるのだ。ただ、ジッパーをあげればいいだけ。それだけで、煩わしい絡まりから解放される。
初めてジッパーイヤホンを買って良かったと思った瞬間は、無造作にカバンに突っ込んだにもかかわらず、一切イヤホンが絡まっていなかったことだったということをまずは明記しておきたい。ちゃんと、メリットがあるんだよってことを、覚えておいてほしい。
タッチノイズとの闘い
しかし、良いところがあれば悪いところもある。完璧なものなどこの世には存在しない。
ジッパーイヤホンの穴に気づいたのは、購入したその当日だった。なんなら、絡まりにくいというメリットを享受する前に、その穴に気づいてしまった。
タッチノイズである。
タッチノイズとは、イヤホンのコードが服や肌に触れたときに発生するノイズ。カナル型イヤホンだと発生しやすいようなので、もし使っている人がいたら音楽を聴きながらイヤホンのコードをがさごそ触ってみてほしい。
なんか雑音が聞こえるでしょ、それがタッチノイズ。
僕が購入したジッパーイヤホンを使うと、音楽がかき消されるぐらいがさごそとノイズが発生して、決して快適に聴けているとは言い難かった。
なぜか。それはジッパーの材質が原因、らしい。
僕が購入したジッパーイヤホンは、当然のごとくコードのジッパー部分はプラスチック製(おそらく)で、普通のカナル型イヤホン様なぷにぷにとした触り心地の素材ではなかった。
簡単に言うと硬いのだ。
そして、イヤホンのタッチノイズというものは、コードの材質が硬ければ硬いほど発生しやすいらしい。
そりゃ、もうノイズが大きくなるのも頷ける。スゲー硬いもん。ジッパーイヤホン。
てなわけで、流石にもうノイズが大きすぎて外じゃ聞けないなと思い、対策を考え始めた。ググったり、友達に訊いたりしてみた。
結論を言ってしまうと、対策方法はいくらかあるみたいだけれど、全部失敗してしまった。
①耳の後ろにコードを通して音楽を聴く
→ジッパー部分が肌に触れて痛いのでNG
②クリップなどで服に固定する
→煩わしさから解放されるのがジッパーイヤホンのメリットだったのに、そもそもクリップなどを使うならジッパーイヤホンじゃなくていい。
③顔ギリギリまでジッパーをあげ、2本のイヤホンが触れ合わないようにする。
→想像してほしい。顔面を沿うようにしてイヤホンが肌に密着している様を。外を歩けない。
④ワイヤレスに変える
→ジッパーとは。
というわけで、タッチノイズを軽減するのを僕は諦めた。
どうやらジッパーイヤホンを使うということは、タッチノイズを受け入れるということに等しいみたいだ(もしかしたら柔らかい材質のジッパーイヤホンもあるかもしれないが、僕が購入したものは硬いものだった)。
大人になるということは諦めるということだ。元より音質にはこだわっていないのだ。せっかく買ったので、断線するまでこのイヤホンを愛そう。僕は固く自らに誓った。
ジッパーイヤホンとの別れ
一週間後、僕は別のイヤホンを購入した。
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セールだったし、「ノイズ遮断」という言葉が僕の胸を刺した。
今、僕の音楽プレイヤーにはこのカナル型イヤホンが刺さっている。
もちろん、ジッパーイヤホンも併用している。歩きながら使うからタッチノイズが気になるのだ。だったら歩きながら使わなければいい、
ということで、オフィスのパソコンにぶっ刺したままになっている。
座りながら使う分には一切デメリットはない。絡まりにくいというメリットも発揮しにくいけれど、もうそれは諦めた。
しかし、会社でジッパーイヤホンを使っていると、周りの社員の皆様が突っ込んでくれて会話が弾むから、一切メリットがないというわけではない。
皮肉にも、イヤホンとしての役割を発揮できなかった割に、話題性という形で価値を発揮しているのだ(ブログのネタにもなっている)。
「友達とかに自慢できそう!」という頭の悪い購買理由はあながち間違いではなかったということになる。ありがとう、ジッパーイヤホン。
事実、つい最近、こんな会話が繰り広げられた。
会社の人「え、何そのイヤホン!?」
僕「あーこれ、ジッパーになっているんですよ。絡まらないんですよ、ジッパーなお陰で!」
会社の人「いや、何で蛍光ピンクなの・・・?黒とかでいいじゃん」
僕「・・・」
ピンクしか在庫がなかったからだよ。