オススメGoose houseカバーソング7選
Goose houseというユニットが好きだ。
家でパソコンを弄っているときは大体音楽を流しているのだけれど、youtubeで彼らが歌うカバー楽曲を流していることが多い。
というわけで、Goose houseのカバー楽曲の「好き!」を7曲集めた。
前段として、Goose houseの説明と、カバー楽曲自体の魅力を書いてから、7曲の紹介に移りたい。
Goose house?
実は、僕自身も詳しいわけではないので、ここはさらっと済ませたい。
Goose houseは現在7名のメンバーがいる音楽ユニット。しかし普段からグループとして活動しているわけではないらしく(Wiki参照)、個々でミュージシャンとして活動している7名が、「Goose house」の名の下に集い、音楽活動を行っている。
そのため、発足は2011年らしいのだが、その当時から現在に至るまでメンバーが脱退したり、加入したりと常に所属しているミュージシャンは変化している。
ミュージシャンがシェアハウスをしており、時々家をあげてライブをしたり楽曲を出したり、そんな活動をしているイメージだろうか。
現メンバーの詳細はこちらを。
しかし、彼らが個々のミュージシャンとして活動している場面を僕はあまり知らない。
故に、「普段は個々で活動してるアーティスト集団」とWikiには書かれているものの、「Goose house」というグループとして活動している場面を圧倒的に多くみている僕にの認識は、「Goose house」=「人が入れ替わりする音楽ユニット・活動が経常的に行われているわけではない」といった感じだ。
Goose houseとしての活動として、有名なのは以下の楽曲のリリースだと思われる。
「四月は君の嘘」のOPソングになったので、聴いたことがある人も多いのではないだろうか。もちろん、他にも彼らオリジナルの楽曲はリリースされているし、「Goose house」としてライブも行われている。
しかし、今回は「好きなカバーの紹介」なので、これ以上の深堀はやめておいて、彼らの説明はここまでとしておきたい。
カバーソングが好き。
僕はカバーソングが好きだ。世の中には「原曲が最高だぜ!カバーは糞!」という人もいるが、歌っている人が違うことで、あるいは編曲されていることで、原曲にはない魅力が光る場合もある。そういう別の一面を知ることで、その曲がもっと好きになれるということが多い。
例えば、以下のような違いがみられるのが楽しい。
●男女の違い
歌詞やメロディの雰囲気で、この曲は男性/女性が歌ったほうが好きだ!と感じる曲はある。カバーでそれが実現されていると、テンションが上がる。
●編曲
明るい曲がバラードになっていたり、別の楽器を使っていたり。曲の印象が全く変わるので、楽しい。
●ハモリ
1人のボーカルが歌っている原曲を、複数人でハモリながら歌っているカバーがある。ハモっていなくても、ツインボーカルならではの掛け合いのようなものが生まれることがあり、そういうのが好きだったりする。
●癖のあるボーカルからの脱却
曲は好きだけど、原曲のボーカルの声が苦手ということも稀にある。癖のないボーカルに歌ってもらったほうが好きになれる場合だってある。
これらはカバーソングが好きな理由の一部でしかないけれど、これから紹介するGoose houseのカバーソングオススメを7つ選ぶ上の選考基準になっている。
というわけで、ようやく本題。さあ、Goose houseのカバーオススメ8選を紹介するよ。
Goose house オススメ7選
①車輪の唄/ BUMP OF CHICKEN
Goose houseを知ったきっかけの曲。ナタリーの竹渕慶さんインタビューを読んで、なるほど聞いてみようと思い、「これはすごい」と思った。
原曲はアップテンポでどこか明るい印象のある曲なんだけど、カバーは完璧にバラード。実は歌詞を見たら別れの曲だから、バラードって解釈の仕方もあるよなと感心した。
こちらが僕が読んだインタビュー記事。
そして原曲。全く雰囲気が違いますね。
鍵盤ハーモニカとアコギで爽やかな夏を感じさせるカバーに仕上がっている。ぎらついてなく、曲通じて穏やかなのが耳に優しい。リピートしたくなる一曲。
正直なところを言うと、AメロBメロの女性陣のギリギリの音程で歌ってる感じが好きで選んだ。特に一番の竹澤汀ちゃんの声が最高。服装も可愛いし、視聴者男性の心を奪いに来てる。恐ろしい。
なお、こちらは原曲youtubeに見当たらず。アップしてないんだねえ。
ウェディングソングの4番バッターのカバー。
バンジョーの威力よ。カントリー調になったこの楽曲が好きということに尽きるのだけれど、歌っている人の層が厚いからパートの分担が楽しいのも魅力の一つ。
「なんだてめえは!」(歌詞だと「なんだ君は」なんだね)
原曲。2000年リリースなのか・・・はるか昔の曲になってしまった。
滅茶苦茶かっこいいな!と思って久々にアイドルの曲をTSUTAYAでレンタルした「サイレントマジョリティ」。原曲は可愛い女の子達が可愛らしい声で歌っているのだけれど、反逆の歌だし力強く歌ってほしいなあと思って探し当てたのがこちら。
センターのワタナベシュウヘイさんのパワーボイスが良い。サビが静かに始まっててて、「NOと言いなよ、サイレントマジョリティ」で声が伸びる感じがとてもかっこいい。
原曲こちら。確かこちらデビュー曲だったよね?大人への反逆の歌を、センター14歳のユニットが歌っている勢いの良さ、グレイト。
ポルノグラフィティも好きで、彼らのライブに行くことで僕は音楽にハマったみたいなところがある。
原曲のラテン調の雰囲気を壊さず、忠実に再現されており、ファンが聴いて嬉しいカバーになっている。
何よりの魅力は、センター竹渕慶さんの歌声。サウダージの歌詞にある切なさを表現しながら、力強くサビを攻め抜く声が溜まらん。
ポルノグラフィティ 『サウダージ』("OPEN MUSIC CABINET"LIVE IN SAITAMA SUPER ARENA 2007 )
せっかく公式チャンネルがライブverをあげてくれてるので、こちらを。ポルノは本当にライブ盛り上げるのうまいんだよなあ。
⑥シュガーソングとビターステップ/UNISON SQUARE GARDEN
シュガーソングとビターステップ/UNISON SQUARE GARDEN(Cover)
私はUNISONの大ファンであり、もちろん「シュガーソングとビターステップ」も大好きであり、この時代にそぐわない表現だが原曲も擦れ切れるほど聴いている。擦り切れてるのは円盤ではなく耳のほうになるか。
斎藤さんの男性でありながら繊細で透明感のある高音が魅力だが、女性2人がギターとキーボードを手にパワフルに歌い上げている様もとても好きだ。
特に、2:55あたりからの大サビが良く、ボーカルがフレーズごとに交代されていて「一緒に歌っている感」があるのが好き。最後の「一難去ってまた一興」で綺麗にハモっているのも良い。
UNISON SQUARE GARDEN「シュガーソングとビターステップ」ショートVer.
ちなみに原曲こちら。PVの女の子が可愛い。ショートVer.だと田淵さんの暴れっぷりの神髄が見切れないのが残念。
⑦年下の男の子/キャンディーズ
可愛い女の子3人が、アイドルの曲を振りありで歌ってくれる至福の4分2秒を楽しめる。
キーボードと鍵盤ハーモニカのみで演奏されているシンプルさが、彼女らの声を引き立ててよい。原曲は煌びやかな印象だが、こちらは音が柔らかく「可愛らしい」印象に仕上がっている。
原曲はこちら。時代を感じる。
以上、Goose houseのオススメでした。定期的に最近の流行りの曲をカバーしてくれるから、時代に取り残されないという意味でもとてもお世話になっています。
【14の夜】不甲斐ない父と浅川梨奈の乳という多大なる価値。(感想:ネタバレあり)
おっぱいの有用性について書いた記事を過去にアップしてから、肝心な映画の感想を書くまでの期間が大分開いてしまった。
今更だが、「14の夜」の感想を書きたい。都心だと「テアトル新宿」で2月3日までの上映だから、気になる皆は、急げ!
ちなみに、視聴したのは1月15日なのだけれど、当時はこんなドリンクが販売されていた。
まさしく性春である。カルピスを使っているのがグレイト。露骨に下ネタじゃねえか。
どんな映画?
こちらの「イントロダクション&ストーリー」を読んでいただければ一発で把握できるが、簡単に概要を。
監督・脚本は足立紳さん。39回日本アカデミー賞で話題になった「百円の恋」で脚本を担当していた人ですね。
ストーリーは以下の通り。
舞台は1987年の田舎町。主人公タカシ(もちろん14歳)は柔道部の友人3人と、深夜に近所のレンタルビデオ屋で実施されるAV女優のサイン会にいこうぜ!と約束する。その一晩の物語。
不良に絡まれたり、お隣さんの巨乳な幼馴染がいたり、不甲斐ない父が嫌いだったり、姉が婚約者を連れて挨拶をしにきたり、イベントがてんこ盛りの1日を、何者にもなれない葛藤を抱いたタカシが、どのように過ごし、その過程でどのように成長するのかを描いている。「THE 青春映画」だと思ってくれていい。
ちなみに、僕の定義する青春映画とは、
①中学生~高校生の主人公が、何かしらの悩みや葛藤を抱えており、
②家族との関係・恋人との関係・友人との関係を通じて、
③その悩みや葛藤と向き合い、場合によっては乗り越える物語。
を指す。
こういった青春映画は、ラブコメにもならない限り、陰鬱とした暴力が少なからずある視聴難易度の高い作品になりがちだが、「14の夜」はシリアスな場面とコメディ要素がバランスよく配置されており、構えずとも楽しく見れる良い映画だった。
今回は、家族軸・恋人軸・友人軸で、「14の夜」がいかにタカシの心のうちの変化を描いたかを思いっきりネタバレしながら語っていきたい。
特に、この映画の秀逸な点は、父親と息子の関係にあると思う。
どうしようもない友人からの別離と、新しい友人。(以下ネタバレ)
まずは、タカシと彼を取り巻く友人関係の変化から、彼がどのように変化したかを語りたい。
軸を「家族」「恋人」「友人」と置いたが、唯一タカシの成長を象徴していたのが、彼の友人関係の変化だったと思う。
物語の冒頭、タカシは柔道部の友人達3人と退屈な時間を過ごしながら、「自分はおっぱいを揉める人間になれるか」というどうしようもない悩みを打ち明ける(14歳を真面目にさせるのは異性関係だから、しょうがない)。
しかし、友人達は自分と同じような焦燥感は抱いておらず、彼らからは「今を変えたい」という気持ちが一切感じられない。
この時点、すでにタカシと友人達に溝が生じている。最下層であろう自分自身に焦っているタカシと、平然と生きる他3人。
物語が進むにつれて、3人との溝は決定的になる。おそらくこの物語の後、4人が元のようにつるむことはなくなるだろう。なぜなら、タカシ自身があの一晩で別の視点を手に入れ、変化したからだ。
そして、タカシが恐れていた不良の金田から認められたということも、彼自身の変化を明確に示している。 根性がある、と自分より上と思っていた人間に認められたことは、タカシにとっての成長と言えるだろう。
「14の夜」における友人関係の変化は、タカシの変化を表す一つの指標になっている。彼は旧来の友人を失い、新しい関係を見出した。それが一つの物語の結末となっている。
おっぱいを揉ませてくれない幼馴染。(ネタバレ)
少しは成長したのかと思いきや、タカシはそれ以上の挫折を味わうことになる(その挫折こそが、彼の成長という考え方もあるけれど)。だから、エンディングで彼は笑い、そして泣いたのだろう。
徹底的に彼の気持ちを折ったのが、幼馴染のメグミちゃん。童顔巨乳で有名なアイドル浅川梨奈ちゃんが演じている。
『14の夜』スパガ浅川梨奈「やれよ!揉めよ!」メイキング&予告
「やれよ!揉めよ!」。だが揉めず。
タカシが感じていた「漠然とした焦り」が、徹底的な敗北感と姿を変えたのが、メグミちゃんおよび暴走族の取り巻き。
彼は初めて自分より格上の暴走族に立ち向かうこととなったが、結局幼馴染のおっぱいを揉むことは叶わず、それどころか「小学生時代以来かっこいいところが一切ない」と言われてしまう。
かっこよかった自分が過去の栄光であって、今の自分がかっこ悪い存在であることを決定的にされる。そんな自分を変えようと立ち向かうが、自分より強い存在には敵わず、おっぱいも揉めず、結局かっこ悪いまま朝を迎える。何一つ、欲しいものは手に入らない。
それが彼の最大の挫折である。「14の夜」における女性、恋、おっぱいは、彼のモチベーションの動機であり、彼を奮い立たせる誘因であり、彼を徹底的に敗北者とした重要なファクターだ。
とどめを刺す、不甲斐ない父。(ネタバレ)
敗北を経験した息子に、「お前がかっこ悪いのは、かっこ悪い父親のせいではない」ととどめを刺す父親のかっこよさよ。かっこ悪い?いいや、最後にあなたはしっかりとかっこよかった。
青春映画において、友情と恋はだいたい描かれている。だが、中学生・高校生にとって最も影響が大きいはずの「家族」を丁寧に描けている作品はそう多くない印象だ。
だが、「14の夜」においては、不甲斐ない父親が重要な役割を担っている。
まず、主人公タカシが抱く「漠然な不安」の原因を作っているのが、父だ。
教師としての仕事を謹慎中の父親。
作家志望でありながら1次審査も通らない父親。
娘が婚約者を連れてきても、酔っぱらってまともに相手ができない父親。
息子のAVを見て楽しんでいる父親。
こんな大人になるのではないだろうか、というタカシの思いが、彼の「このままではいけない」という不安につながっている。
だが、それはただの責任転嫁であり、物語の冒頭では、タカシ自身は「自分自身がカッコ悪いのは、自分のせいである」ということには気づいていない。
メグミとその取り巻きに徹底的に敗北させられた後も、おそらくはっきりと「自分の責任であること」は認識していないだろう。
しかし、最後に不甲斐ない父親が、息子と向き合って、はっきりと言う。
「お前がかっこ悪いのは、父さんがかっこ悪いせいじゃない」
そして、タカシの一晩の冒険は完結する。
付き合う人が変わり、敗北を味わい、最後に父の言葉で、敗北が自分の責任であることを知る。
物語の始まりも、終わりも、父親が生み出しているのだ。一番影響を与えている家族が、物語の中心にいるというのは、とてもリアルで良いと思う。齢14の男子が、友人関係や女性関係だけで、大きく変わるというのは無理があると思うから。
「14の夜」の秀逸な点は、やはりあの不甲斐ない父にあると思う。浅川梨奈の巨乳の威力も多大なる貢献をしていることは、もちろん言うまでもない。
【傷物語Ⅲ 冷血篇】劇場に相応しきエログロ(感想:ネタバレだらけ)
どうも。先日見てきた傷物語Ⅲ 冷血篇の感想を書きます。
このコンテンツの特徴上、全くこの映画の結末を知らずに見に来たという人は限りなく少ないであろうという予測をし、いきなりネタバレ全開で記事を書きます。
↑こんな記事も先日書きました。こちらは読まなくてもいいかもしれません。
ちなみに、私は原作者西尾維新さんのファンであり、物語シリーズは原作をすべて読んでいます(結物語は未読)。しかしアニメは化物語だけしか見ていません。
化物語をアニメで見る
⇒原作を読む
⇒西尾維新のファンになる
⇒深夜アニメ視聴から離れる
⇒映画だし傷は全部見ておこう。混物語もらえるし。
といった流れで視聴に至りました。
↑視聴したのはTOHOシネマズ新宿。シアターの前にパネルがたくさん。阿良々木君のパネルにはサインも描かれてますね。
↑ちなみに貰った混物語は、「あかりトリプル」。戯言シリーズのメイドさんですね。戯言シリーズを読んだのはずいぶん昔なので、もう一度読み返してから楽しみたいと思います。
久々の物語シリーズのアニメということで、Ⅰ~Ⅲまでしっかりと楽しめましたが、「Ⅲ 冷血篇」の魅力を、あるいはアニメーションとしての傷物語の魅力を、書いていきたいと思います。
しっかりとグロい
冷血篇は、キスショットの四肢を3人のヴァンパイアハンターから、そして心臓を忍野メメから取り返すシーンから始まります。
見どころは、キスショットがギロチンカッターを食べるシーン。ここの残虐性をしっかりと描くことで、阿良々木暦の「キスショットを生半可な優しさで救った後悔」が映える。
僕はアニメ化物語のするがモンキーで、VSレイニーデビルの描写がずいぶんファンシーになっていて驚いたのですが(血の色が赤じゃないので、全然グロくない)、傷物語はド直球で血の描写をしています。
ほぼデフォルメなしで、人間の身体をキスショットが捕食している姿が表現されており、それはもう目を伏せたくなるようなグロさだった。だが、「傷」の物語には必要不可欠な描写であって、阿良々木暦の傷を生む「人間はヴァンパイアにとって食料である」という絶望的な真実をド直球で突きつけた瞬間だったな、と思います。
あれはTV放送のアニメで出来たのだろうか。難しそうなら、劇場版にした価値はそこにもあるのかも。
思えば鉄血篇でキスショットが四肢をもがれて生きたいと必死にもがくシーンも、血が飛び散っていて、とても直視できない絵だった記憶があります。熱血篇で羽川が死にかけたシーンも。
生きるとか、死ぬとか。そういう大切な場面を茶化さず、視聴者の心をずったずたにする勢いで描いているのが傷物語3部作の魅力なのかと。
しっかりとエロイ
物語シリーズ最強のヒロイン(と僕が思っている)、羽川翼さんに阿良々木暦がセクハラをするシーンが、非常に官能的に描かれています。
もはや、性行為を行っているのかと疑うレベルの描写力。ここは声優さんに拍手を送りたいのですが、阿良々木暦が羽川翼にエロいセリフを言わせる場面が、もはやヤっている男女のやり取りに等しかった。
こればかりは、劇場に見に行ってくれと言うしかない。すごかったぞ。このために1500円払ってもいいぞ。
劇場に相応しい、始まりの物語(シリーズ全体のネタバレあり。注意)
物語シリーズの主人公、阿良々木暦の「弱っている人には全員優しい」という偽善、そして「都合のいいことばかり考えてしまう」という彼の甘さ。それが詰まっているのが傷物語だと思います。
想像力が及ばず、人類の敵であるキスショットに「可哀想」という理由で優しさを見せる阿良々木暦。
都合よく、キスショットを殺さず全員が不幸になる選択肢を選ぶ阿良々木暦。
この性格は物語シリーズ全体でぶれない彼の強い個性であり、魅力的な部分でもあります。(阿良々木ハーレムを築き上げたのも、忍野扇という闇を生み出してしまったのも、上記2つの彼の性格が起因しているので)
ちゃんと始まり物語らしく、阿良々木暦の性格を80分ちょっとの冷血篇で理解できるように描き切ったのは良かった。
キスショットの言葉で、羽川翼の言葉で、彼の性格がちゃんと語られている。この映画の最大の価値は、ここじゃないかな。
余談
キスショットの過去を語るシーンがあって、そこが絵本風になっていた。
その絵を担当している人が化EDの絵師のウエダハジメさん。
あぁ、懐かしい・・・。と感傷に浸ってしまいました。好きなんだよな、この絵柄。
ということで、今回の記事は以上。あかりトリプルの感想・ネタバレ記事もそのうち書きますね。
【14の夜 / 傷物語Ⅲ 冷血篇】青春映画における「おっぱい」を語りたい。(感想じゃない:ネタバレなし)
新宿に出かける用事があったので、ついでに映画を2本見てきた。
そしたら偶然にも、2作品に共通して、物語で重要な役割を担っていた部位があった。
それこそ
おっぱい
である。
言い訳をしておきたいのだけど、決して僕は欲求不満だったわけではない。どうしようもなくおっぱいを求めていたわけではない。
ここまで前面におっぱいを推している映画を、2本連続で見ることになったのは、偶然の産物だ。(1800円で見なくてよい映画を選んだ結果だ。みんなビンボが悪いんや)
普段は映画1本ごとに1本の記事を書いているのだけれど、せっかく偶然にもおっぱい映画を1日に2本も見るというプレミアムな体験をしたので、青春映画における「おっぱい」の役割について、記事を書きたい。
何を見たか。
タイトルに記載してるけど、一応見たおっぱい映画について説明しておく。
①傷物語Ⅲ 冷血篇
ネタバレはしない約束なので、特にどうしておっぱいなのかについて言及はしないが、以下予告編をガン見していればなんとなくわかってくれるはずだ。
傷物語〈Ⅲ冷血篇〉本予告(2017/1/6全国ロードショー)
↑1:21
80分ちょっとと短い映画なので、1500円で見れるのだけど、その割にはとんでもない尺をおっぱいにつかっている。
映画の詳しい感想はこちら↓
②14の夜
青春ものである。14歳が真剣におっぱいを求めている映画である。
予告編も、いきなりおっぱいである。
どちらも、真剣におっぱいを求めている男子が描かれた映画である。
「14の夜」だけの感想を書いた記事はこちら。
では本題、青春映画における「おっぱい」の重要性について、語っていくぞ。
男子の青春に、女の子への欲求はつきものである。
男子を主人公とする青春映画は、たいてい以下の要素を含んでいる。
あるいは、青春映画において、僕は以下の要素を期待している。
①恋(あるいは女性への欲求)
②友情
③家庭の問題
そして、これらの三要素に、「何者にもなれない自分」である主人公が立ち向かうのがセオリーだ。葛藤が生まれ、それを打破するときの爽快感、あるいは何もできないときの無力感が、青春映画の醍醐味だと思う。
青春映画におけるおっぱいは、①恋(あるいは女性への欲求)において、大きなバリューを発揮する。
あるいは目的を共有するという意味では②友情でもおっぱいはバリューを発揮するかもしれないが、①恋(あるいは女性への欲求)がおっぱいの主戦場だ。
ちなみに③家庭の問題において、おっぱいが活躍する場面はない。あるのかもしれないが、あってはならない。おっぱいで家庭の問題が生まれてしまうのはあまりにチープだし、おっぱいで家庭の問題が解決されてしまったら、それは解決ではなく崩壊を意味する。
閑話休題。
とにかく、中学生~高校生の男子の異性への憧れを描くうえで、おっぱいの描写は避けては通れない。おっぱいというか、直接的な表現をすると、「性欲」だ。
世の女性方には申し訳ないが、幼馴染への淡い恋だろうが、クラスのアイドルへの片思いだろうが、年上の先輩・お姉さんへの憧れだろうが、中高生男子の恋愛には、もれなく性欲がついて回る。なんなら、恋愛してなくても性欲がついて回る。
常に、エロいことしか考えていないのだ。我々男性はバカだ。中学生・高校生だったら、もっとバカだ。ヤリたくてしょうがない。常に性欲と隣り合わせだ。
中高生男子のリアルな生活や心の機微な変化を描くうえで、彼らが常日頃から抱え、悩んでいる「性欲」を表現するのは必要不可欠である。
もちろん表面上の恋愛感情だけをなぞるだけでも、十分美しく爽やかな青春映画は完成する。しかし、主人公の葛藤や現実での壁をリアルに、より視聴者に突き刺さるように描きたいのだとしたら、内にある本当の欲求に踏み込む必要があるだろう。
禍々しい欲求。あの子がほしい!あのことヤリたい!この熱い思いがあるからこそ、青春映画の主人公たちは、悩み、成長しようと努力する。ちゃんと性欲を描けるかどうかで、納得感が違ってくるのだ。
「性欲」を描くことの大切さについては以上である。もうこれで納得してもらえないなら仕方がない。
では、なぜおっぱいなのか?おっぱいである必要があるのか?それについて説明したい。
キレイな性欲の権化、おっぱい
こんな汚らしい文字の並びを、このデザインのブログで書くことなんて、間違えている。だが、僕は書くぞ。ギャップ萌えだ、これこそギャップ萌えである。
「性欲」というと、残念ながら我々は「汚らしい」とか「気恥ずかしい」いうイメージを持ってしまう。
ビジュアル的にも、実際に性行為を行っているシーンを見るのはなかなか恥ずかしいものだ。例えば家族でご飯を食べている時、そういうシーンが流れた気まずいでしょう?
では、考えてみてほしい。青春映画において、主人公たちが恋をする。あるいは性欲を抱えて、その解消を試みる。その時、例えば主人公が実際にハードに女の子とヤってしまったり、あるいは直接的に「ヤリたい」みたいな表現を使っていたりしたら、どうだろうか。
引いてしまう。悶々と童貞を抱える中高生達が、そんな直接的に性欲を表現したら、引いてしまうだろう。
登場人物に共感できないと、映画を楽しむのは厳しい。視聴者達の心を離さないように、主人公の性欲を表現するのは、実は難易度が高いと思われる。
コメディ的な要素を入れる、性欲ではなくキレイな恋愛だけを描く、などがよく見られる手法だが、まあそれだけではやはり前述した「禍々しい欲求」には踏み込めていない。
そこで、おっぱいである。
おっぱいは、性欲のどぎつさを緩和しつつ、男子中高生達の欲求をストレートに伝えるのに最適だ。
おっぱいを揉むという行為は、性的でありながらも、「性的」な枠の中では最もきつくない表現である。メディアでも「おっぱい」という表現はよく聞くし、ギリギリギャグ認定されるレベルの性的表現だろう。
「おっぱいもみてえええ!!!」という男子の心の叫びは、彼らの正真正銘の性欲を吐き出した言葉であるが、見ている側としては微笑ましくもあり、なんとなく応援さえしたくなってくる・・・そんな気分にならないだろうか。
つまり、性欲を極限までマイルドにし、我々視聴者への性欲への理解を促すのが、おっぱいなのだ。
青春映画におけるおっぱいの貢献は大きい。おっぱいのおかげで、男子中高生の真の心の悩みが、多くの人に伝わっている。この記事で書きたかったのは、これだけである。
今回のオチ
久々に書いた記事が、深夜の勢いでおっぱいについて語った文章でびっくりしている。
実は、今日2回「おっぱい」な映画を見て、どうしようもなくおっぱいに魅せられてしまった自分がいた。歌舞伎町に足を運びかけた。
だが、どういうわけだが傷物語の阿良々木くんが、14の夜のタカシが、頭にこびりついて離れない。彼らの葛藤が私の邪念を吹き飛ばしてくれた。
青春映画は良い。心が洗われるようである。彼らの葛藤の表現を支えたおっぱいに幸あれ。
【ぼくは明日、昨日のきみとデートする】原作小説と映画の違いが面白い(感想:ネタバレあり)
どうもこんにちは。 初めて小説の話をします。
昨日、こんな記事をアップしました。
童貞マインドにグッとくる映画、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」。
元々「見たい!」と思ったきっかけが、原作がライトノベル作家(七月隆文さん)執筆によるものだったということもあり、ちゃんと小説も読んだ。
とても読みやすい文体、通勤電車でさっと読み終えた。映画見て、話の内容が頭に入っているなら、1時間半ぐらいあれば読了できるはず。
原作を読んで改めて感じるのですが、映画版「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」はとても丁寧に登場人物の心理描写や設定の説明がされており、映画で描かれていなかった部分が小説で補足されているかといったらそうではありません。
映画を見た人は、ちょっとしたディテールの違いを楽しむ小説、と思って読むといいかと。
この記事では、映画版と小説版の違いを挙げつつ、「この工夫はいいなあ」って思ったところを羅列していきます。
なので、今回の記事はしょっぱなからガンガンネタバレです。
純粋に小説を楽しみたい人、映画を楽しみたい人は、読み終わった・見終わった後に読んでみてください。
違い① リアリティの映画版と、可愛い小説版。
映画「ぼく明日」の愛美ちゃんは、小松菜奈ちゃんが演じていることもあり、なんだか「大人っぽくて清楚で自立している」印象がとても強かった。最後まで、高寿の一歩先を行っているような、ある意味悟っているような、影がある甘えが苦手な女の子ってイメージ。
一方小説版。愛美ちゃんは甘えたがる子で、女の子らしい一面が強く出ている。
まあこれはビジュアルがついていないため、読者の頭で理想的な女性像を作りあげることが出来るからかもしれないけれど。ちゃんと「可愛い!守ってあげたい!」と思わせる描写がいくつかある。
決定的な違いは、高寿にとっての最初の日、愛美ちゃんにとっての最後の日の別れ際のシーン。映画では愛美ちゃんがそっと涙を流す程度の描写で終わっているが、小説では愛美ちゃんが感極まって高寿に抱き着いて泣いてしまうのだ。
ここの違いは大きい。「高寿が時間逆行について理解していないから、おかしいと思われないように自分は我慢しなければいけない」と自らを制御した映画版と、感情のままに最後の日に抱き着いてしまう小説版。
後者の方が、人間味があるというか、愛美ちゃん自身がいっぱいいっぱいになっている感じが伝わってきて、可愛いと思った。
しかし、映画でビジュアルに起こすとなると、初対面(という体で視聴者が見ている)の男女がいきなり抱き合うのはきついし、非現実的過ぎても視聴者の心が離れてしまうので、致し方がないところではある。
このシーンに限らず、小説版はもっとフィクションっぽく振り切っており、映画版はやや現実的だ。
その結果映画版では、最初から過酷な運命を知っており、全てを理解している愛美ちゃんは大人っぽく描かれているのだと思う。
あと、余談だけど、小説版愛美ちゃんは、例えば「だよねっ」と言ったように、語尾を良く跳ねさせる。この「っ」の感じが非常に可愛い。子どもっぽい感じが良い。小説版では、そういうちょっとした文章の工夫で、愛美ちゃんの可愛らしさをむくむくと育てあげていた。流石だぜ、七月さん。
違い② 絵に残す映画版と、夢を応援される小説版。
高寿が美大に通っているという設定は同じだが、その設定の活かし方が明確に映画版と小説版で異なる。
映画版の高寿は、絵に振り切っていた(美大だし当然だ)。そして、その「絵」という彼の特性は、「愛美と過ごす今の時間を大切にする」という描写に繋がっていく。
高寿にとっての最後の日、彼が愛美ちゃんの絵を描く象徴的なシーンがある。「彼女の今を、彼女と過ごしたこの瞬間を残す」という高寿の強い思いを感じられて、僕はとても好きだ。
実はこのシーン、小説版にはない。絵に残すという形でこの一瞬を大切にする高寿の思いを視聴者に伝えるのは、美大所属という設定を最大限に活かした映画版ならではのファインプレーだ。
一方小説版は、高寿の興味が多岐にわたっていて、絵よりも小説を書く彼にフォーカスされている。
小説の冒頭で「イラストレーターになりたい。同時に作家にもなりたい」と明言されており、その後も夢を追う高寿とそれを応援する愛美ちゃんが何度も取り上げられている。というか、もはやこの小説の軸になっている。
高寿が周囲に隠しながら密かに書いていた小説を、愛美ちゃんが読んで、その感想を手紙として渡す場面がある。それだけではなく、決まった30日間をなぞらなければいけない愛美ちゃんが、高寿に渡す感想だけは答え合わせをしないで書こうとするのだ。
この部分は2人の関係をとても良く表現できているなあと思っていて、「秘密の共有」と「決して同じ将来を歩めない恋人の、夢の応援」と「イレギュラー対応をすることによる大切さの表現」がぎゅっと凝縮されている。
お互いに大切にしあっていることを、将来の夢を一緒に見るということで伝えるという手法を小説版はとっていた。
今を大切にする描写に重きを置いた映画版。限られた時間の中でも将来を2人で考える描写に重きを置いた小説版。
優劣はないけれど、ビジュアルとして魅せる映画において、絵を描くというオリジナル路線を貫いたのは英断だと感じた。
※余談だけど、小説版の愛美ちゃんが高寿に渡した手紙の部分だけ、手書きになっていてとても可愛い。顔文字とか書いてあるし。なんだこの破壊力。
違い③ 家族写真と2人の写真
もう書きたいことは書き尽くしたのだけれど、ポイントは3つにしたがる癖があるのは社会人の嫌な宿命である。
映画版、小説版ともに高寿の家族に2人で会うシーンはあるのだけれど、映画版は家族で写真を撮り、小説版は高寿と愛美ちゃんの2人で写真を撮る。
「家族になんでなれないんだろう?」という高寿の痛みを表現するために、家族写真にするのは効果的だけど、初めて出会った家族と写真を撮れる勢いスゲーなぁって感じだ。
2人で記念撮影するほうが恋人っぽい。甘酸っぱい!この点においては、小説版に軍配が上がるかな。
まとめ
ディテールが違う、とは言ったものの、こうやって書いてみると映画版と小説版が結構違っていることに気付きますね。
やはり表現媒体によって、映える物語は変わってくる。
かつて私は「原作ある作品は、原作読めばいいじゃん」という主義を掲げていましたが(俗に言う改悪アニメを嫌っていました)、原作と映像化作品の違いを見ると面白いですよね。創意工夫があって。
【ぼくは明日、昨日のきみとデートする】献身的な愛が描かれた、童貞に優しい映画(感想:ネタバレあり)
どうもこんにちは。
「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」を見てきました。
監督は恋愛・青春映画だったら、大体この人って感じの三木孝浩さん。
そして原作が、七月隆文さん。
三木孝浩さんの映画はあまり見ないのだけれど(青っぽい恋愛映画は得意分野ではない)、七月隆文さんが元々ライトノベル作家であるということでこの映画は見ようと決めていた。
中高サブカルにどっぷり使っていた名残で、そういう何かトリックや舞台設定があって惹かれ合う男女がすれ違ってしまう、といった話が大好きなのだ。
「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」という秀逸かつ意味深なタイトルから、その「設定凝った系切ない男女恋愛」の匂いを感じとった。この映画、僕、好き。
去年のクリスマスイブに僕の精神をぶっ壊したこの企画が頭をちらつくが、「これは僕が好きな設定の映画、映画・・・」と気持ちを落ち着かせながら、映画館にのこのこ足を運ぶ。
さて、視聴背景を長々と説明したところで、早速「ぼく明日」の魅力を語っていきましょう。
この予告を見て、気になった人はもれなく楽しめる映画となっていました。ビックリするほど期待通り。
全ての何気ないイチャイチャシーンが、後半の感動に繋がる(ちょいネタバレ)
この映画は一切ネタバレをせずに魅力を伝えるのが難しい。
ここでは大まかな構成だけ説明させてほしい。この映画、2部構成になっている。
前半が、福士蒼汰演じる「南山高寿」と小松菜奈演じる「福寿愛美」が出会い、仲良くなっていくパート。ここでは2人がひたすらイチャイチャしているだけで、2人の微笑ましい姿を見ているだけだ。
しかし、2人の間にちょっとした違和感がある。それが後半に活きてくるのだけれど、そこはぼーっと見ててもかまわない。映画後半、同じ場面を別の視点で描写している時間が結構あるからだ。「前半のあの部分は、設定が判明した後はこんな意味がありましたよ」とわかりやすく説明するように。
(そのせいかちょっと後半で冗長な印象を持ってしまったけれど、それは僕の辛抱が足りなかっただけかも。)
そして、イチャイチャをしばらく眺めた後、とあるシーンでようやく「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」と題字が現れる。この演出は「これから本当の彼らのストーリーが始まる」と感じることができて、とてもオシャレ。
その後、2人の関係の設定というか悲しい背景が明らかになり、2人がどのようにその現実と向き合って、2人の関係を築いていくかが描かれている。ここからが本番で、感動のポイントがぎゅっと詰まっている場面だ。
その設定が非常に上手い。お互いがお互いこのことを大切に思っていないと、愛し合っていないと、彼らの関係は簡単に崩壊してしまう。そして、彼らの運命が大きく変わってしまう。まさしく2人は運命の赤い糸で結ばれているような関係。
このような「非現実的な設定」があるおかげで、現実ではありえないような深い愛情を作品中で描くことが出来ていた。刺激を求めて消費されるような恋愛関係ではなく、相手のことを一番に考えるという形の愛。
隣に若い女の子2人が座っていたのだけれど、そのうちの1人がぼろっぼろ泣いてた。
汚い部分が一切ない、純粋で綺麗すぎるほどの恋愛関係を見たい人には、刺さるんじゃないかな。
献身的過ぎる愛美ちゃんと揺れる童貞心(露骨にネタバレ)
純粋な愛とかなんだとかと書いた後に、「童貞心」とかいう中見出し書いてる自分には呆れてしまう。
でも、仕方がない。僕が映画を見終わった後、真っ先に感じたのは「男性に都合がよすぎる話ではないだろうか」という疑問だった。お互いに愛し合っていることは分かるが、高寿と愛美ちゃんで、与えるものと受け取っているものが平等じゃないような感覚があった。
高寿は常に苦しみを共有できる恋人がいたけれど、愛美ちゃんは時間逆行のことを知る前の高寿に対して、何一つ相談することが出来ず、1人で苦悩を抱えながら30日目を終えることとなってしまう。それが、不平等感を生んでいる気がする。
2人の関係は、愛美ちゃんの時間が逆行していることを、高寿が知る前と後で大きく変化する。
高寿は、時間が逆行するという残酷な運命を知らないまま、彼への思いが最大限に高まった愛美ちゃんとの楽しい時間を過ごす。そして、愛美ちゃんから時間逆行について聞かされ、「シナリオ通りの恋愛」がきついと愛美ちゃんに辛く当たってしまうが、彼女が抱えていた苦悩に気付き、ようやく愛し始める。
しかし愛美ちゃんはすでに高寿のことを知っていて、知っているどころか「運命の人」とまで思っているぐらいだから、おそらく感情の一方通行感はない。
一方愛美ちゃんは、30日目の高寿に優しくされながら2人の関係を始める。高寿への思いは日が経つにつれて高まっていくが、高寿の思いはどんどんしぼんでいく。
それどころか、「シナリオ通りの恋愛がキツイ」と高寿に暴言を吐かれる。
そういう喧嘩があった場合、普通は事後フォローで傷ついた心を男に癒してもらうのだけれど、愛美ちゃんの場合は時間が逆行しているから、それは不可能だ。
愛美ちゃん的には、「明日傷つけまーす、ごめん!」と宣告を受け、その後本当に傷つけられ、なかったことにされるという流れになる。これはキツイ。
そして更に悲惨なのが、高寿が時間逆行のことを知らない期間だ。愛美ちゃんは数多くの「これが最後」を経験し、それを境に愛している高寿が明確に自分から距離を置くようになる。普通の恋愛なら、態度を改めることをリクエストできるが、それもできない。ただ、悲しみを1人で抱えなければいけない。
愛美ちゃん、辛すぎじゃね? 彼女の時間が逆行しているからしょうがないんだけど、それにしても愛美ちゃんは幸せな30日を過ごせたのだろうか・・・、と疑問に思ってしまった。よく、30日間高寿を好きでい続けることが出来たなあと。大人だなあと。
恋愛下手で優しい青年。そして献身的過ぎる美少女。
この童貞に優しすぎる構図、2次元によくあるやつだ!!
原作者がライトノベル作家だったという事前情報のせいかもしれないけれど。僕が童貞に優しいコンテンツに浴びるほど触れていたからかもしれないけれど。
それにしても、男性に都合がよすぎだろう!!!
だが、しかし。この「不平等感」がこの映画の魅力を生み出していることは否定できない。
女性は運命の人を信じて献身的に傷つきながら愛する愛美ちゃんに感情移入し、「なんて美しい恋愛なんだろう・・・泣ける・・・」と感動する。
そして、我々男性(童貞マインドを持ち合わせている人だけかもしれないけど)は「くわー!!!小松菜奈可愛い!こんな恋愛がしたい!!好かれたい!!」とテンションが上がる。
結局見た人全員が幸せになる、素晴らしいスゲー映画だということさ。
今回のオチ
ボロボロと泣く女の子を横目に劇場を去った僕は、六本木の街を歩きながら考えた。
この献身的な愛は、福士蒼汰くんと小松菜奈ちゃんだったからこそ、生まれるのではないだろうか。なんだかんだ一目惚れから始まっているんだし、やっぱりそうなんじゃないだろか。
私がこの映画を見終えた後、不平等だぜーなんてつまんないことを考えてしまったのは、そのことに気付いてしまったからではないだろうか。
もっと、楽しめばよかった。小松菜奈ちゃんが彼女になった気分でめちゃくちゃ楽しむべきだった。
難しいことは考えずに感情がままに見ないと、損することになる。
「ぼく明日」を見た学びが、今でも胸に突き刺さっている。
ちなみに。
映画を見終えたあと、原作も読んだのですが、映画の脚本で上手くやったなあと思えるこだわりが結構ありました。こちらは原作を読んだ感想と一緒に、こちらの記事にまとめております。
【ポッピンQ】可愛い女の子がダンスしているだけで幸せ(感想:後半ネタバレ)
僕はかつてオタクであった。
恋愛盛りの中高時代を男子校で過ごしてしまったのが、間違いだった。
本気で、恋のドキドキを2次元のキャラクターに感じていたことがあり、「じ、じつはあのキャラ好きでさー」という友人へのカミングアウトを、告白気分で楽しんでいた。気持ち悪いとは言わないが、決して爽やかな絵ではない。いや、気持ち悪いか。
しかし、間違いとは言ったものの、アニメとラノベと漫画に囲まれていたあの6年間は、大切な思い出だ。
今では深夜アニメも見なくなってしまい、ライトノベルや漫画にも疎くなってしまったが、それでもまだオタクとしての血は流れている。アニメ、大好きだ。
アニメ映画が公開されたら、友達と一緒に劇場に足を運ぶ習慣は健在である。
そして、2017年1本目に見た映画こそが、「ポッピンQ」である。
↑新宿バルト9で見たのだけれど、超歓迎された。
↑声優さんのサイン入りポスター。
ちなみに公式サイトはこちらです。僕は弱いオタクなので詳しいことは分かりませんが、制作陣がかなり豪華らしく、一緒に見に行った友達が盛り上がっていました。
ちなみに、映画を見る前に一応HPを確認して、イントロダクションを読んだのですが、少々不安になる一文を見つけてしまいました。
そして、彼女たちのドラマチックなストーリーを、さらに盛り上げるのがダンスシーン。
3DCGを駆使した可愛らしくも華麗なダンスは、本作を語るときに欠かせない重要な要素のひとつ。
ダンス・・・?
いや、シリアスな青春ものの途中で踊られたら僕、笑っちゃうんですけど・・・。
踊ってますね。1:22ぐらいから。
でも、このダンスを主軸に置くのだったら、この映画、最高だったと思います。
そう、ダンスのための、ダンス映画。可愛い女の子たちが映える、ダンス映画。
それに尽きます。それでは魅力を語っていきましょ。
中学3年生女子5人の成長を描く、キャラクター萌え物語。
一言でいうと、ポッピンQはこんな映画です。
どんな話かを説明しておきましょう(詳細見たい人はリンクからどうぞ)。
卒業式当日に、悩みを抱えた女の子5人が、「時の谷」という異世界に飛ばされてしまいます。彼女らが協力して、ダンスを踊らないと、世界は崩壊してしまいます。
といったお話です。シンプルでしょ? そうなんです、シンプル。
この映画にはどんでん返しも起きないし、我々大人が見る分には先が読める展開の連続となっております。
悪い意味で言うと、ストーリーは凡庸。しかし、キャラクターの成長物語を描いた王道をしっかりと貫いています。なので、「いや、ここでこのキャラクターがこんなことを言うはずはない」というシーンは一切ない。
「ポッピンQ」は、キャラクターをとても大切にしています。登場した5人の女の子全員のバックグラウンドが理解できるように説明されていて、彼女らがどんな悩みや葛藤を抱えているかもしっかりと伝わる。悩みや葛藤を仲間と共有して、試練を乗り越えていくというストーリーの流れも、自然でわかりやすい。
物語を通して、一切パーソナリティがぶれないまま、思春期の成長を描ききったという点で、素晴らしい映画だと思います。そういう作品は、キャラクターに感情移入出来るので、それがすなわち「萌え」に繋がって、我々のようなオタクも楽しみやすいですよね。
ちなみに僕は、紗紀ちゃんが一番好き。
↑劇場でもらったカレンダー風ポストカード。メインキャラ5人と集合絵1枚で12か月分あるよ。
余談ですが、この映画、ターゲットをかなり広く設定しているようで(どうやらコミカライズ版がちゃおで連載されていたりするようです)、子どもから大人まで見れるようにしたかったんだと思います。そういう意味でも、分かりやすく可愛いキャラクターに感情移入しやすいストーリー作りは成功と言っても良いのかもしれません。
やはりダンス!(ここからネタバレ含む)
この物語のカギを握るのは、ダンス。詳しい人によると、プリキュアシリーズのダンスを手掛けている人がダンス部分を作ったんだとか・・・。
細かい話は分かりませんが、可愛い女の子が最高の表情でダンスする様子は可愛い。クライマックスでダンスシーンがあるわけですが、キャラクターへの愛が最高に高まった段階で、ダンスをされるわけですよ。
もはや、アイドルです。アイドル。生のアイドルのライブを見たことが一度あるのですが、それと同じような気持ちで楽しむことが出来ました。
あと、5人が心を通じ合わせないとダンスは踊れないという当たり前の前提が、この物語の鍵を握っていたと思います。
最初4人(サキちゃんは訳あっていない)でバラバラのダンスを踊っているシーンがあるんですけど、あれをあえて映したのは非常に良かった。視覚的に4人が自分のことしか考えられていないことが一発で伝わるし、そのあとダンスがそろったときの感動が大きい。
ダンスによって、5人の絆を表現するのはとても良い手法だと思いました。
「唐突なダンス!!」とか言ってた視聴前の僕に、説教してやりたいですね。
その他、頑張ってたところ(以下、致命的なネタバレ含む)
女の子5人、ということに意味を持たせていたのは面白いなーって感じました。
ラストシーン、伊純のお母さんが言っていた「女の子は急に成長するもんねー」というセリフとか、時の経過の恐怖を美しさを失う「老い」で表現するところとか。
あとは、同位体が良い役目を果たしていましたね。パートナーの女の子の性格を分かりやすく体現しており、彼女らが自分で言ったら痛いor臭い感情を、彼らが上手く代弁してくれている。心が通じ合っているという設定が活かされていた。
一方で、伝えたいことをすべてキャラクターが喋ってしまっていたので、ちょっと軽薄だなーとは思ったのですが、女児向けの解説だと思ったら目を瞑れないほどではないでしょう。
そして、続編を匂わせるスタッフロール後の映像。あれは、「本作で消化不足だった設定をすべて続編に投げます」というスタッフの意思表示であり、ある意味賢い。「次回作であのわからなかったところが解決するんだね!?」って視聴者は思うもんな。レノの扱いとか、酷かったもん。
次回作、期待してるよ!!!
ちなみに。
無料でポッピンQの世界観が楽しめる漫画があるので、こちらを読んでから劇場に行くことをおすすめします。1話はいきなりネタバレから始まるので、要注意ですが。
次は明日、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」を見てきます。この落差にビックリだよ。